関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1455 片桐昭彦氏「上杉景勝の勘気と越後一揆」1 慶長5年7月14日付兼続宛三成書状

<<   作成日時 : 2015/09/04 15:35   >>

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片桐昭彦氏の「上杉景勝の勘気と越後一揆」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』【高志書院】所収)の中で、慶長5年7月14日付の直江兼続宛の石田三成書状写が取り上げられています。片桐氏の同書では、この文書について、「偽文書であると評価され」たものの、収められている「覚上公御書集」が「近世前期に米沢上杉家で公的に編纂された『上杉年譜』の草稿の写本である可能性を指摘し」、「文書の写の収載に際しては、(中略)原文書の姿をそのまま伝えてはいないが、その内容はほぼ正確に筆記されていると指摘している」という山田邦明氏の見解が紹介されています。
 もっとも、片桐氏の同書では、この文書の「真偽について論じることが目的ではない」と記され、真偽の問題についてはそれ以上踏み込まれていません。
 桐野作人氏の「兼続と三成ー立場の違いを超えた共闘」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】所収)には、兼続が慶長5年「直江状」を出して以降、関ヶ原の戦い直前までに、直江兼続・上杉景勝と三成の間に9通の書状のやり取りがあったことが記され、その中に上述の書状の類似書状(出典は「続武者物語」)も含まれています。そのことに関して、片桐氏の同書では、「類似書状については、延宝8年(1680)に国枝清軒が著した『続武者物語』など近世の軍記類にみられる」などと記されています。
 桐野氏の同書では、9通の書状の中には、「偽文書説」があるものも取り上げられていますが、上述の書状に「偽文書説」があるとは記されていません。桐野氏は上杉側と三成の間に少なくとも9通の書状が交わされている(もっと頻繁に書状のやりとりがあったことも推定されています)ことから、「『直江状』を発給した直後に、上杉方は徹底抗戦の覚悟を固め、三成との連携を謀ったのは間違いない。以降、東西挟撃説は実際に展開してゆく」と指摘されています。
 それだけ重要な意味合いを持つ上述の書状ですが、その中で、「景勝に勘当されて越後に残留する『柿崎・丸田・斎藤・宇佐美・山本寺・加地等』の牢人たちをしっかり引き付けておくようにと石田三成は述べている」と片桐氏の同書にあり、「三成と兼続が事前に共謀を約束していたのかどうかはともかくとして、慶長5年7月下旬から9月中旬にかけて、上杉の旧家中(牢人)らを構成員とした『越後一揆【上杉遺臣一揆】』を起こさせたことは事実である(伊東1963、福田2004ほか)」と記されています。
 片桐氏の同書では、「景勝から勘気を受けて牢人となった者たちに注目しながら、関ヶ原合戦の前哨戦の一つとも位置づけられる『越後一揆』について検討を加え」られていますが、なかなか興味深い切り口であり、新たな知見がいろいろと得られました。
 

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