関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1456 片桐昭彦氏「上杉景勝の勘気と越後一揆」2 三成の挙兵前に越後一揆の動きあり

<<   作成日時 : 2015/09/06 11:08   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 前述したように、片桐昭彦氏の「上杉景勝の勘気と越後一揆」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』【高志書院】所収)の中で、慶長5年7月14日付の直江兼続宛の石田三成書状写が取り上げられ、「景勝に勘当されて越後に残留する『柿崎・丸田・斎藤・宇佐美・山本寺・加地等』の牢人たちをしっかり引き付けておくようにと石田三成は述べている」と記されています。
 片桐氏の同書では、「越後一揆の主導的な役割を果たしたのが兼続であった」ことが論じられています。その根拠として、「柿崎は、景勝から勘気を蒙りながら直江兼続に身を寄せ与板衆として働いたが、柿崎以外にも上倉治部大輔や古藤長右衛門などの牢人が兼続に預けられ付き従っていること、そして、牢人以外に越後一揆の軍勢を率いた『代官』は宇津江・満願寺などの与板衆が大部分を占めていたこと」などが挙げられています。
 「上杉氏は、会津から越後へ軍勢を送り込み一揆の誘発をはかる」ことを示す史料として、片桐氏の同書には、「塔寺八幡宮長帳」が挙げられています。その史料で注目すべき点として、「6月には一揆の動きがあったこと」、「軍事指揮を担う代官は『宇津江殿(宇津江藤右衛門か)・満願寺仙右衛門殿・すか野殿(菅名右門)・かき崎殿(柿崎弥次郎)』であったこと」が挙げられ、「『御馬廻衆』の菅名以外の宇津江・満願寺・柿崎の3人は兼続家中の『与板衆』である[矢田他2008]」と記されています。
 ここで気になるのは、すでに「6月には一揆の動きがあった」という点であり、7月の三成の挙兵前のことです。前述したように、桐野氏は「兼続と三成ー立場の違いを超えた共闘」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】所収)の中で上杉景勝・直江兼続と三成の間に、「直江状」発給から関ヶ原の戦い直前まで少なく9通の往復書簡があったと指摘されていますが、6月20日付の兼続宛の三成書状の前に、兼続から三成宛の書状があったことが推定されています。
 桐野氏の同書では、6月20日付の三成書状については偽文書説があるものの、書状の「天の与えと祝着せしめ候」の文言が、8月5日付の真田昌幸宛三成書状の「天のあたふる儀候間」という表現と似ており、「三成の常套句だった」という笠谷和比古氏の見解が紹介されています。
 6月20日以前の兼続書状がいつ書かれたかはわかりませんが、兼続が家康との対決を鮮明にし、三成が味方してくれる思いがあったからこそ、越後で一揆を起こし、ゆくゆくは上杉氏の旧領である越後を取り戻したいと考えたのではないでしょうか。
三成と兼続との間に、いつごろから共闘の動きがあったのかわかりませんが、白川氏が指摘されたように、三成の次女が上杉家臣の岡半兵衛に嫁いだ時期(慶長4年、兼続が会津に戻る時に三成の次女を同行したと推定されています)から、その芽は出ていたような気がします。


 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1456 片桐昭彦氏「上杉景勝の勘気と越後一揆」2 三成の挙兵前に越後一揆の動きあり 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる