関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1474 旅行記47 名護屋・福岡旅行8 名護屋城大手口の石垣・築城開始時期は?

<<   作成日時 : 2015/10/01 11:10   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
写真は名護屋城址碑のそばの石垣を9月20日に撮ったものです。石垣は各所に残っていますが、石垣の保存修理に関しては、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」に具体的に記されており、なかなか手間も時間もかかる作業だと感じました。石垣には草がはえていますが、時々手入れされるのでしょう。石垣の裏側が三ノ丸になります。
 名護屋城の築城に関しては、前述したように、石田正澄書状や「黒田家譜」の記述などから、天正19年10月頃から開始され、翌年2・3月には完成したと一般的には考えられていますが、本当にわずか4・5ヶ月程で出来上がったのかという疑問を持ちます。
 この点に関して、同図録の中で、内藤昌氏の見解が紹介されています。
 「「4・5ヶ月で本城が竣工したとしてもそれは、石垣の土木工事と、天守および本丸の主要殿舎であって、文禄元年3月、工事に当った九州諸大名が一斉に渡海出撃した後、ほぼ入れ違いに名護屋に参陣した全国大名が、本丸・二ノ丸・三ノ丸・山里丸の各門・櫓・書院・数寄屋などの作事などに当たった」と。
 秀吉が京都を出立したのは天正20年3月26日のことであり、名護屋に到着したのは4月25日です。秀吉が名護屋に着いた時には、すでに日本軍は渡海して朝鮮へ侵攻していました。
 一方、三成が大谷吉継と共に京都を発ったのは、2月20日ですが、先に名護屋に行って準備を整えるためだと思われます。三成の名護屋到着日は今のところ確定できませんが、3月29日付で相良頼房宛に渡海を促す書状を出していることからこの時には着いていました(中野等氏『石田三成の居所と行動』)。こういう書状を出していることからも、三成が相良氏の「取次」を務めていたことがわかります。
 ところで、名護屋城の普請開始時期ですが、もっと早かったのではないかという説があることも、同図録で取り上げられています。その根拠として「天正18年(1590)の小田原合戦における九州諸大名の軍役負担の軽減・免除等が想定される事や名護屋城跡水手曲輪から『天正十八年』銘丸瓦が発見された事」が挙げられていますが、「現況では断定するには判っていない」と指摘されています。
 この丸瓦は同図録に写真が掲載され、次のような解説文が掲載されています。
 「『天正十八年・四天王侍(寺)住人藤原朝臣不美□・住村与介・五月吉日・吉□』の銘文が施される」「当該期の四天王寺(現大阪府大阪市)には、寺島家に代表される瓦師集団の存在がよく知られており、名護屋築城にあたってもそれら瓦師が関わっていたことが推定される」などと。
 瓦が天正18年5月に作られたからと言って、それだけでこの時期から名護屋城の普請が始まったということにはなりませんが、普請開始時期についても、今後の検討課題だと思われます。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1474 旅行記47 名護屋・福岡旅行8 名護屋城大手口の石垣・築城開始時期は? 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる