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zoom RSS 石田三成の実像1483 旅行記51 名護屋・福岡旅行12 名護屋城三ノ丸跡碑・秀吉に渡海を勧めた?

<<   作成日時 : 2015/10/11 20:05   >>

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 写真は名護屋城の三ノ丸跡碑とそばの説明板を9月20日に撮ったものです。
 三ノ丸について、 名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、次のように記されています(前半部分)。
 「本丸の東側に位置し、本丸大手に直結する。東西約80m、南北約130mの長方形基調の曲輪である。三ノ丸南側には大手口の防御を強く意識した櫓台が張出し、内部は北西側から北東側にかけて明瞭な段差を有する」などと。
 東出丸を経由して三ノ丸、そして本丸大手へたどりましたが、奇妙なのは、二ノ丸が本丸の西側にあり、直接本丸につながっていないことです。われわれはこの後、一旦、本丸、天守台を見た後、本丸から再び三ノ丸に戻り、馬場を通って西に行き二ノ丸の方に行きました。
 歩いてみると、改めて名護屋城の大きさが実感できます。図録にある通り、まさに「天下人」の城ですが、秀吉の作った聚楽第、大坂城、伏見城はいずれも今はありませんから、その点、名護屋城は天守はないものの、曲輪跡は残っており、当時の様子がしのべる貴重な存在です。
 秀吉は当初、朝鮮半島に渡る予定でしたが、中野氏の見解によれば、日本軍が海戦で敗退したことを受けて、取りやめました。このことに関して、三成は秀吉に渡海するように勧めたものの、徳川家康と前田利家が止めたという話があり、ドラマでもそういうふうに描かれることが少なくありません。
 しかし、日本軍が海で敗退したという知らせを受けての渡海延期だとすると、三成が渡海を勧めるはずはありません。船奉行として、兵や物資を無事に海を渡らせるのに神経を使ってきた三成にとって、朝鮮水軍が力を持っているところに、天下人の秀吉を向かわせる危険を冒すとは考えられません。しかも、三成は朝鮮出兵反対派であり、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも描かれているように、「博多記」には嶋井宗室と三成が朝鮮出兵に反対したという記述があります。さらに、秀吉に代わって渡海した三成たち三奉行が、朝鮮半島での日本軍の戦いぶりを眼にし、このままでは戦線が延び補給路を断たれ、やがて日本は負けてしまうという書状を書いています。この書状については、「三成伝説」や中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)でも取り上げられていますし、名護屋城博物館発行の図録「文禄・慶長の役」にも掲載されています。

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