関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1484 旅行記52 名護屋・福岡旅行13 名護屋城三ノ丸井戸跡・「図屏風」に明の使節

<<   作成日時 : 2015/10/12 11:12   >>

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 写真は名護屋城の三ノ丸の井戸跡を9月20日に撮ったものです(名護屋・博多旅行からはや3週間経ちます)。柵で囲ってあるので、井戸の底がどういう状態になっているのかはわかりません。この井戸は「三ノ丸の中央よりやや南側」に位置しており、名護屋城の「配陣図にも表記のある」ことが、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の中で記されています。
 同図録に掲載されている「肥前名護屋城図屏風」(同館蔵)は、六曲一双の157cm×350cmの大きなものであり、貴重な史料です。その解説文には、「『文禄・慶長の役』当時の名護屋城・城下町・陣屋・船・人々等の様子が壮大なスケールで緻密に描かれている。絵は、名護屋城の北東約1.5kmに位置する加部島(主に天童岳)から見た構図を中心として描かれる。名護屋城内の御殿・門・櫓・茶室・能舞台等の建物約70棟、陣屋・武家屋敷約70箇所、町屋・民家等約260軒、武士・商人・町人・明使節団(約40名)・ポルトガル人等の人物260人、3艘の安宅船や物資を積んだ帆船等約80艘の舟等が詳細に描かれている」などと記されています。
 また「屏風絵の景観年代については」、「第5・6扇の屏風絵中段に文禄2年5月に講和交渉のため名護屋に着いた偽りの明国使節団と考えられる行列が描かれている事や名護屋城内にその一行を迎える為と思われる衣冠束帯姿の正装した人物(5人・秀吉・家康・利家等か?)が描かれている事等から、中心的時間軸は文禄2年5月頃と推定される」と指摘されています。
 「偽りの明国使節団」を伴って名護屋に戻ってきたのは、増田長盛・大谷吉継・石田三成ら奉行衆と小西行長でした。中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)によれば、文禄2年(1593)の項に「一行は5月13日名護屋に到着」と記されています。典拠は「大和田重清日記」です。もっとも、「名護屋に到着」した日は、後述する尾下成敏氏の書によれば、「5月15日」と記さされていますが、このあたりもとの文書で確かめたいと思います。
  秀吉が明国の使節に接見したのは5月23日(中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」【吉川弘文館】の「略年表」)。
 相田文三氏「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」(『織豊期主要人物居所集成』所収)には、「5月22日名護屋在」「7月9日名護屋在」とあって、この時期名護屋に滞在していたことが確かめられます。また尾下成敏氏の「前田利家の居所と行動」(『織豊期主要人物居所集成』所収)には、「明の使節と称する人物ら」が、5月「23日、秀吉と対面した(『益田孝氏所蔵文書』)。そのおり、利家や家康らがその場に列座していたと伝えられている(『太閤』)」と記されています。「太閤」は「太閤記」のことです。拙ブログ記事で前述したように、尾下氏の「上杉景勝の居所と行動」(『織豊期主要人物居所集成』所収)には、「景勝もその場に列座していたと伝えられている(【太閤】)」と記されています。

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