関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1487  京都探訪262 仙洞御所参観4 大宮御所御常御殿・「京都新城」の北政所

<<   作成日時 : 2015/10/15 10:46   >>

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写真は仙洞御所内にある大宮御所御常(おつね)御殿を10月8日に撮ったものです。建物としては、大宮御所御車寄とつながっています。
 「仙洞御所」のパンフレットには、「大正年間に内部を洋風に改め、周りにガラス戸をはめている。庭には紅梅・白梅、竹林、松が植樹され、『松竹梅の庭』と呼ばれている」と記されています。ガイド役の職員さんが、かつてここに、ダイアナ妃が泊まったということを話していましたが、ダイアナ妃が京都を訪れた時のニュース映像は、今でも鮮明に覚えています。その時のダイアナ妃の様子を語る職員さんの話を聴いていると、彼女の悲劇的な最期にどうしても思いが馳せてしまいましたし、時代の流れを感じ、しんみりとした気分になりました。
 さて、現在の仙洞御所の場所に、秀吉は「京都新城」を作ったわけですが、中村武生氏監修の「中村武生とあるく洛中洛外」(京都新聞出版センター)の「御苑内にあった『京都新城』ー北政所の最期の地」には、「京都新城」に「秀吉の死後、大坂城にいた北政所が入りました」と記されています。
 また、関ケ原合戦前後の北政所の行動について、同書には次のように書かれています。
 すなわち、「合戦直前に櫓や門、石垣などを壊し始め」、「合戦で東軍が勝利すると、はだしのまま逃げ出し、後陽成天皇の生母・勧修寺(がしゅうじ)晴子の屋敷に逃げ込むんです」と。
 その理由について、「城に住んでいるので、反対勢力と見込まれることを恐れ武装解除した」と記され、北政所は「身の安全が保障された後には終生、住み続けている」という事実も述べられています。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「辰姫」の章には、関ケ原合戦前後の北政所の行動及び立場について、次のように記されています。
 「京都の豊国神社の別当職を務めた神竜院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)の『梵舜日記』によると、北政所は東軍が京都へ入る前に徒歩で逃げ財産を略奪されるのを防ぐため隠したとある。もしも東軍に味方していればその必要もなかったであろう。秀吉と力を合わせて積み上げた豊臣の天下を易々と徳川家康に渡せるものであろうか。日記からは西軍の挙兵に一役買っているような節も見受けられる。当然三成の行動にも理解と協賛の思いがあったことであろう。そのため三成の三女を養女として育て、津軽家への輿入れにも援助したと思われる」と。
 こういう見解は、白川亨氏が示されていました。北政所が家康寄りであり、大坂城西の丸を家康に譲ったのもその一環だったという捉え方が今なお小説やドラマでよくなされていますが、徳川に都合のよい見方です。大津城開城交渉に北政所も淀殿と共に使者を派遣したことからも、両者ともに豊臣家のために連携していたという跡部信氏の見解があり、福田千鶴氏も同意を示されています。北政所=家康派、淀殿=三成派という構図は根本的に見直す必要があります。

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