関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1488  京都探訪263 仙洞御所参観5 六枚橋・「京都新城」の北政所、淀殿と連携

<<   作成日時 : 2015/10/16 10:25   >>

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 写真は仙洞御所の六枚橋付近を10月8日に撮ったものです。参観者たちの一部の人が乘っているのが六枚橋であり、写真に向かって左側に写っている池が、入江になっている阿古瀬淵(あこせがふち)であり、右側に北池があります。六枚橋は北池の北西に掛かっている橋であり、文字通り六枚の石でできています。中央に見える丘のところに、紀貫之の邸宅跡の石碑が建っています(写真ではわかりませんが)。明治8年(1875)に建立されたものです。
 さて、仙洞御所の場所が、秀吉が「京都新城」を作ったところであることは拙ブログ記事でたびたび触れていますが、中村武生氏監修の「中村武生とあるく洛中洛外」(京都新聞出版センター)の「御苑内にあった『京都新城』ー北政所の最期の地」には、「京都新城」に「秀吉の死後、大坂城にいた北政所が入りました」と記されています。
 このことについて、同書では北政所は徳川家康と通じていたという通説が否定されています。通説では、北政所が家康派で、自分が住んでいた大坂城西の丸を家康に譲って、後事を家康に託したというものであり、こういう描き方は小説やドラマで当たり前のようにされています。
 しかし、慶長5年7月17日付で出された、家康弾劾状である「内府ちがいの条々」の中に、北政所を大坂城西の丸から追い出したことが家康の罪状の1つに挙げられています。もっとも、これは作成した奉行衆の言い分ですから、その分は割り引いて考えなければなりませんが。
 北政所は大坂城から京都新城に移って、隠居したわけではないことが、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)に次のように記されています(拙ブログ記事でも以前触れたことがありますが)
 「寧は京都新城に拠点を構え、朝廷の応接や豊国社の運営、さらには方広寺大仏殿における供養などにおいて、豊臣家の家政の出先機関的な役割を担ったのではないか」と。
 「寧」とは北政所のことですが、北政所は「幼少の秀頼を後見して大坂城を離れられない茶々と分担して」おり、「茶々と連携していた」と指摘されています。
 関ヶ原の戦いの際、京極高次の籠る大津城の開城交渉に、北政所と淀殿が使者を送ったことも、同書には記されています。三成の三女の辰姫は、北政所の養女となって、津軽藩に嫁きますが、ひょっとして淀殿もそのことを知っていたのではないか、あるいはここにも北政所と淀殿の連携があったのではないかいう気もしています。むろん、そのことを直接証拠立てるものはないのですが。
 北政所と淀殿の対立が実際あったかのように、小説やドラマでは描かれますが、豊臣家のために連携していたという事実はもっと知られていいことですし、それが徳川史観からの脱却にもつながると思います。

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