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zoom RSS 石田三成の実像1491 旅行記54 名護屋・福岡旅行15 名護屋城本丸跡・陣替を命じた秀吉朱印状

<<   作成日時 : 2015/10/19 10:35   >>

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 写真は名護屋城の本丸跡を9月20日に撮ったものです。本丸大手から本丸へ上がってきました。「天下人」の城だけあって、かなりの広さがありました。シートがかかっているところは、発掘調査がされているのでしょう。
 その広さについて、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の「本丸」の説明には、「城の最高所部域を占め(標高87m)、東西約145m、南北約125mの方形基調の空間」と記されています。
 またその説明文の中には、次のようなことも書かれています。
 「発掘調査によって、その『本丸大手』一帯を含め、本丸西側から南側にかけて、築城当初時と推定される石垣を埋め込んで本丸の大規模な改造・拡張を行っていることが明らかとなった。特に、その西側拡張部には総延長約57mの多聞櫓等を新たに構築している。また本丸内部の調査では、多数の建物の存在が明らかとなり、屏風絵に描かれているような『本丸御殿』の具体的様相が明らかになりつつある」と。
 さて、三成の陣が最初は波戸岬の、現在は生駒親正陣跡と推定されている地付近にあったものの、名護屋城から遠く離れた南東の野元に陣替になったのではないかという中井俊一郎氏の見解があります。三成と共に奉行として朝鮮半島に渡った大谷吉継の陣も同様に陣替になったことが想定されますが、彼らは和平交渉に当たったものの、決裂し、慶長の役では渡海していません。そのことが陣替に影響を与えたのではないかということも中井氏は指摘されています(オンライン三成会編「三成伝説」【サンライズ出版】)。
 同図録には、実際、他の武将で陣替が実際に行われたことを示す豊臣秀吉朱印状が掲載されています。文禄2年6月8日付の堀秀治宛のものであり、「『羽柴三十郎』=織田信包を番替とするので早々に帰陣するように命令する。秀治は、後文禄3年には伏見城の普請に従事する」などと記されています。堀秀治は当時、越前北の庄18万石の城主であり、6000人の兵を率いていました。
今回は堀秀治陣跡を回っている時間的な余裕はありませんでしたが、名護屋城の南西にあり、その西には秀吉の甥である豊臣秀保の陣跡、南には鍋島直茂陣跡があります。
 同図録には、堀秀治陣跡について、次のように記されています。
 「名護屋城の約1km南西側に位置し、10haを超える半独立丘陵(標高53m)に立地する。昭和56年度から平成4年度までの12年に及ぶ発掘調査・保存整備が実施されている(発掘調査延約7年・保存整備延約8年)。主要部の大部分を発掘調査した唯一の事例であり、陣の具体的様相を知り得る貴重な例である。調査では、『能舞台』・『茶室』や庭園空間等の遊興的空間が顕著に確認されている」と。

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