関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1492 旅行記55 名護屋・福岡旅行16 天守台・隠居所として想定されていた名護屋城

<<   作成日時 : 2015/10/20 10:58   >>

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 写真は名護屋城天守台址碑を撮ったものです。本丸の北西角部にあり、本丸より1m程高くなっています。写真の右側が本丸部分であり、天守台が一段高くなっているのがわかります。標高は88mです。名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、天守台について、次のように記されています。
 「屏風絵では外観5層に描かれている。内部は最下部が穴蔵構造で、『名古屋家文書』によれば内部7階と記されている。天守台は、城の象徴であるためか、他に比べて破却が著しいが、天守台上面の復元規模は、東西約19m、南北約23mの長方形状である。発掘調査では、特に中央部の心柱礎石以外の礎石では、根固めとして礎石大の石を下部に据えている状況が確認されている」と。
 大規模な城であった名護屋城ですが、当初は秀吉の「隠居所」であったことが、同図録に収録されている跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」で指摘されています。
 「秀吉がここに着陣してきたとき、徳川家康が京都の秀次家臣に書状を送り、『やがて(秀吉は)御渡海なさるべき御模様に候。当地の儀は、御隠居所にまかりなり候』と述べているのだ(中村孝也『徳川家康文書の研究』)」と。
 この書状は、天正20年4月28日付の中村一氏宛のものであり、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)でも取り上げられ、この時点で家康が名護屋にいたことを示す典拠として使われています。秀吉が名護屋に着いたのは4月25日、三成が着いたのはそれより早く3月29日頃のことです。
 三成に命じられた役目は舟奉行であり、そのことは秀吉が出した、3月13日付の「高麗へ罷(まか)り渡る人数の事」と題する軍令の中に記されています(中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」【吉川弘文館】には「三月十三日付『陣立書』の軍団構成」として記載されています)。
 跡部氏の同書では、秀吉の「隠居」と「唐入り」が当時、セットとして考えられていたことを示すものとして公家の近衛信尹(のぶただ)の書いたものと、増田長盛書状が挙げられています。
 近衛信尹は「大陸征服事業を思いたった秀吉の心中を推しはかり、『(愛児鶴松を亡くした)今はこの世間に望なし、さりとて山林竹裏の住居もかえって天下乱逆の基たれば、大明国を隠居のカツミヤウとすべしと思い召し定めて、まづ日本国をば中納言をば中納言秀次卿へ渡」したと記しています。「『カツミヤウ』とは活命、すなわち、なりわい(生業)のことと思われる」と跡部氏は説明されています。

 

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