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zoom RSS 石田三成の実像1494 旅行記57 名護屋・福岡旅行18 伝・馬場 隠居した秀吉の地位と秀次への相続

<<   作成日時 : 2015/10/23 10:49   >>

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 写真は名護屋城の伝「馬場」の南側石垣を9月20日に撮ったものです。石垣がところどころ亡くなっている様子が見て取れます。西の方(写真では左方向)に細長い道が二の丸方に続いており、そこが伝「馬場」と呼ばれるところです。石垣の北側が本丸です。
 名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、伝「馬場」について次のようなことが記されています。
 「延長約130m・幅約15mを測る直線通路である。本丸との比高差は約12mを測る。『馬場』の呼称があるが、後世において直線的で細長い形状であることから馬場機能を想定して命名されたものと思われる」と。
 本当に馬場であったかは確定できないわけです。
 さて、同図録に収録されている跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」の中で、隠居して明国侵攻に踏み切った秀吉の地位についての見解が示されています。
 「彼は関白職を秀次をゆずったものの、太政大臣を辞めることは生涯なかった。一方で隠居であることを唱えながらも大臣に居座り続けたのは、官職に対する彼のこだわりを示しているのではなかろうか」と。
 秀次への相続についても、次のような見解が述べられています。
 「秀吉が秀次に家督と関白職と聚楽第をゆずることで、武家の第一人者としての天下人の地位を相続させようとしていたことはまちがいない。しかし、それを人々納得させるのは容易ではなく、秀吉自身もそのむずかしさを自覚していた。ゆえに彼は『隠居』という体裁をとりつつも実権を手ばなさず、すこしずつ、慎重に後継者にゆずり渡していく手段を選んだのだ」と。
 豊臣政権の奉行や大名への取次としての三成の立場は、秀吉が隠居してからも変わりありませんでしたし、秀吉の意向に従って行動しています。秀吉の愛児鶴松が亡くなった時には、奥州に赴いていましたが、その年(天正19年)の10月末以降に京に戻っています。それ以降は、大陸への侵攻の準備に当たっていたものと思われます。もっとも、、三成自身は、侵攻にはもともと反対の立場であり、現地で戦いの悲惨な様子を見て、その思いを深くして一刻も早い講和を願い、講和交渉に当たるようになりましたが。
 中野等氏の「石田三成の居所と行動」には、天正20年1月22日付の島津義久・義弘宛の細川幽斎との連署状が取り上げられています。その書状では「出水島津家の処遇を述べ、琉球との交渉を島津家に委ねること、肥前名護屋への出陣などを指示」しています。三成は島津家の取次でしたし、大陸侵攻の準備役も果たしていたことがこの書状からうかがえます。

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