関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1497 旅行記60 名護屋・福岡旅行21 二ノ丸・秀吉の「三国国割構想」の中止

<<   作成日時 : 2015/10/28 11:41   >>

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 今年の石田三成祭は11月1日に長浜市石田町で行われますが、その前日に彦根市の佐和山のふもとで「三成の戦4」のイベント、夜には三成ゆかりの宗安寺を中心に夢京橋キャッスルロード一帯でキャンドルナイトが行われますので、金曜日から彦根に泊まる予定です。
画像
 写真は名護屋城の二ノ丸を9月20日に撮ったものです。写真に向かって右側が本丸の石垣、左側が二ノ丸です。伝「馬場」を通った後、今度は道を北に取り、二ノ丸、遊撃丸の方に向かいました。名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には二ノ丸について次のようなことが記されています。
 「本丸の西側に位置する東西約95m、南北約120mの長方形の基調の曲輪である。通常は、本丸に次ぐ曲輪名称ではあるが、この二ノ丸から直接本丸へは連結せず、隣接する周辺曲輪よりも低い位置にある(標高約74m前後」)と。
 さて、同図録に収録されている跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」の中で取り上げられている、秀吉が5月18日に発表した「『三国国割(くにわり)』構想」ですが、「発表から三ヶ月後、秀吉は『隠居所』伏見城の工事をことさら仰々しくおこすことで、計画の中止を人々に伝えた」と記されています。
 「計画の中止」を示すものについて、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で、同年8月30日付の吉川広家宛の木下吉隆書状が取り上げられています。
 その書状には、「大明国へ御動座の儀は、まず相延べらるべき由に候」などと記されています。
 秀吉が計画を中止したという点について、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)によれば、秀吉が大政所の危篤に接して上方に戻ってきた時(着いた時には大政所はすでに亡くなっていましたが)、名護屋に戻らないようにと正親町上皇や後陽成天皇が要請したという「叡慮」に対して、それに従ったことが記されています。こういうことからも秀吉は天皇家に敬意を払い配慮したことがうかがえます。むろん、戦況の悪化ということも大きな要因でしょうが。
 天皇の「叡慮」については、名護屋城博物館発行の図録「秀吉と文禄・慶長の役」の中で、「後陽成天皇宸翰 女房奉書」が取り上げられています。秀吉に宛てたものですが、年月日は記されていないものの、天正20年のものだと推定されています。その解説文の中で、次のようなことが記されています。
 「本史料は、女房奉書形式のもので、秀吉の『高麗国』への下向を『無勿体候』とし、翻意するように促している。結局、秀吉は再出陣を延引することによりの体面を取繕い、10月1日に名護屋へ下向し、11月初頃に名護屋に再着陣する(『直茂公譜考補』所収の大谷吉継書状(写)では11月1日に再着陣)」と。
 

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