関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1498  京都探訪264 仙洞御所参観6 土橋から中島・「京都新城」を壊した北政所

<<   作成日時 : 2015/10/30 10:18   >>

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 写真は仙洞御所の土橋付近を撮ったものです。六枚橋を渡り、紀貫之邸碑が建っているところを通ると、ここに出ます。土橋を渡ると中島(鷺島とも呼ばれています)に入りますが、春にはつつじが咲いて、見ごたえがあります(仙洞御所の紹介ビデオにうつっていました)。このあたりは北池の東側に当たります。
 さて、仙洞御所には、豊臣時代には「京都新城」があり、北政所は秀吉の死後、ここに移り住みましたが、関ヶ原の戦いの際の北政所とその行動について、跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」(名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」に所収)でも取り上げられています。
 まず大津城の開城交渉に北政所が使者を派遣した理由について、京極「高次の姉龍子は『松の丸』と呼ばれた秀吉の元側室であり、その龍子が大津城内に籠城したいたこと」が挙げられています。
 家康が戦後このことを問題視して、「彼女の指示で仲裁の使者に立った新庄東玉斎(とうぎょくさい)らを失脚させた。同じく和議交渉にあたった彼女の侍女孝蔵主(こうぞうず)にも、追及の手がおよびかけた」と記されています。
 このことをもってしても、家康と北政所の仲がよく、北政所は家康を信頼していたという従来の説は崩れます。なお、孝蔵主は、三成の三女の辰姫が北政所の養女として津軽藩に嫁ぐのに同行した人物であると考えられています(白川亨氏の「石田三成とその一族」【新人物往来社】)。
 また跡部氏の同書には、「大津の籠城戦勃発よりも数日前のことだったが、彼女は近所の禁裏御所を戦禍に巻き込まないためにとの理由で自城を破壊し、石垣や櫓を公家に下げ渡しはじめていた(『義演准后日記』)。みずから城わりを実施するというこの武装放棄は、彼女の対外的な中立宣言だったとみてよかろう」と記されています。
 こういう北政所の行為については、前述したように、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「辰姫」の章で、「梵舜日記」の「北政所は東軍が京都に入る前に徒歩で逃げ財産を略奪されるのを防ぐため隠した」という記述などをもとにし、北政所は西軍寄りであり、「三成の行動にも理解と協賛の思いがあったのであろう」と指摘されています。
 これも前述したように、中村武生氏監修の「中村武生とあるく洛中洛外」(京都新聞出版センター)の中では、「義演准后日記」と「梵舜日記」の記述をもとにしていると思われる上述のようなことが取り上げられ、北政所は「城に住んでいるので、反対勢力と見込まれることを恐れ武装解除したのでしょう」と指摘されています。
 跡部氏の同書には、「大津城攻防戦の和議調停は、彼女が身にせまる危険を感じながらも、あえて実行に移した一挙であったということになろう」と記されていますが、もっと積極的な姿勢ではなかったかと私はみています。

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