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zoom RSS 石田三成の実像1476 旅行記49 名護屋・福岡旅行10 大陸侵攻の拠点として想定していた博多の復興

<<   作成日時 : 2015/10/03 09:59   >>

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 写真は名護屋城の大手口櫓台を9月20日に撮ったものです。そばにある「大手口」の説明パネルには次のようなことが記されています。
 「平成4年度の発掘調査で、櫓台下の東側広場から掘立柱跡が見つかりました。また前面の石垣からは、石垣改築の跡を見つけることができました。同年、櫓台を中心に崩壊危険箇所の石垣修理を行い、あわせて、遺構保護をかねた広場の植栽を行いました」などと。
 名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、発掘調査の結果、名護屋城の各所で
改築・改修の痕跡が見られ、「名護屋城の築城に当初より従事した九州諸大名をはじめ」「全国各地から名護屋へ参陣した諸大名の多くも、城の普請あるいは作事に従事させられたことが窺え」ると指摘されています。
 さて、前述したように、同図録に天正15年(1587)5月28日付の徳川家康宛の豊臣秀吉書状が掲載されていますが、その解説文に、次のようなことが記されています。
 「大陸侵攻の当初計画においては、博多を拠点とし、『蔵入地』=秀吉直轄領を多く配した九州を兵站基地として重要視した秀吉の構想を窺い知ることができる。ちなみに秀吉晩年の慶長3年頃における全国の総石高約1800万石の内、蔵入地は約240万石で、その中でも蔵入地の約1/4近くが九州に集中していたと推定されている。また、『日本之覚〜』という文言に示されるように、朝鮮国を日本の秩序下に組み込もうとする意図が窺える。秀吉は、6月7日に筑前箱崎に着陣し、『九州御国分』=論功行賞、大陸侵攻にあたっての拠点として博多を重視し、『太閤町割り』という言葉に象徴されるように戦乱により荒廃した博多の復興にも意欲的に取り掛かる等、九州平定に伴って大陸侵攻についての具体的な動きが活発化する」など。
 この時点で、秀吉は名護屋ではなく博多を大陸侵攻の拠点として考えていたわけですが、「太閤町割り」を実際に行ったのは三成たちでした。三成は博多の復興に尽力し博多の商人の神屋宗湛、嶋井宗室らと親交を深めました。
 名護屋博物館、名護屋城跡や三成、佐竹義宣、上杉景勝などの陣跡を回った翌日の21日に、オンライン三成会の二人と一緒に車で虹の松原や唐津城を回った後、福岡に入り、神屋宗湛の屋時跡(豊国神社)、宗湛の墓がある妙楽寺、秀吉が陣を置いた筥崎宮、三成がよく参拝した伊野天照皇大神宮、三成が楼門を再建した太宰府天満宮など、三成ゆかりの場所をいろいろ巡りました。福岡はその翌日の22日も、今度は自分一人で、地下鉄1日乗車券を利用して、あちらこちら回りましたが、それらの報告は改めて行いたいと思います。

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