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zoom RSS 石田三成の実像1479「佐和山城跡 現地説明会」田附清子氏講演「三成と佐和山城」2 切り土・盛り土

<<   作成日時 : 2015/10/06 11:52   >>

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 写真は「佐和山城跡 第1次範囲確認調査 現地説明会」の様子を一昨日に撮ったものです。昨日の拙ブログ記事に貼付した写真に写っていた土坑は、上の写真の右側の端に少し写っています。佐和山城の本丸跡は写真の左側をずっと上ったところにあります。写真は東側から撮っています。写真の手前に写っているのは集石遺構です。写真ではわかりにくいですが、写真の左側は切り土がされており、右手の木のあたりから右側は盛り土がされています。
 この切り土と盛り土について、現地説明会の資料には、「調査地は南から北東に伸びる尾根の先端に位置するため、南側を切り土とし、その土を北東側の尾根先端側に盛り土することにより、曲輪の平坦面を確保している状況が明らかになりました」と記されています。また切り土と盛り土によって土塁や曲輪の構築が同時期に行われたことも明らかにされていましたし、「曲輪構築状況の模式図」も掲載され、斜面になっている尾根の上の部分を切り取って、下の部分に盛り土し、土塁などを作る状況が、絵によってわかりやすく説明されていました。
 曲輪の造成がいつ行われたかははっきりわからないものの、城主が堀尾吉晴の時代か石田三成の時代ではないかと推定されていました。今回は展示されていませんでしたが、この現場から出土した軒丸・軒平瓦が史料には掲載されていました。
 この日の午後に行われた、田附清子氏の講演会「三成と佐和山城」では、この曲輪が作られたのは堀尾吉晴の時代ではなかったかと推定されていました。三成は城を惣構にしているものの、曲輪はそれ以前に作られていたのではないかと。二年前に拝聴した中井均氏の講演会でも、三成はそれまでに改修された佐和山城に入ったに過ぎず、三成が行った惣構普請は、「肥大化した城下政策」だったと指摘されていました。
 田附氏の講演会で、特に注目したのは、三段構成の曲輪の一番上の煙硝櫓の後ろに土塁がある謎について、新たな見解を示されていたことでした。普通、土塁は敵に対する防御のためのものですから、曲輪の前にあるものです。しかし、煙硝櫓の土塁はその法則から外れています。
 土塁の横は道になっていますが、ここはもともと堀切の堀底であったのではないかというのが田附氏の見解でした。この堀底道を進み、谷筋を渡ると二の丸へと続いていると説明されていましたが、確かに縄張図を見ると、ここから二の丸にたどり着けます。堀切がある場所の山の斜面の下の方の部分の土を削り取って平地にし曲輪(煙硝櫓)をこしらえため、現在土塁のようなところが残ったというわけです。ここのあたり文章で書くと、わかりにくいのですが、講演会では、図を書いてきちんと説明されており、よくわかりました。佐和山を熟知して探索を続けておられる田附氏ならではの見解だと思いました。この土塁をどう見るかについては、今後も論議が続けられるのではないでしょうか。
 煙硝櫓は、関ヶ原の戦いの後の佐和山落城の折、石田方が火を放ち、その火が本丸に移ったことにも講演会で触れられていましたが、これは江戸時代に聞き取り調査をした時にまとめられた「古城御山往昔咄聞集書」に記されていることで、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも触れられています。
 
 
 

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