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zoom RSS 石田三成の実像1480「佐和山城跡 現地説明会」田附清子氏講演「三成と佐和山城」3 二度の加増辞退

<<   作成日時 : 2015/10/07 10:51   >>

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 写真は10月4日に行われた「佐和山城跡 現地説明会」へ向かう途中の様子を撮ったものです。前述したように、鳥居本駅から佐和山城下町を横断して、「かもう坂通り往還」を登って、現地に行きました。写真にも写っているように、「かもう坂通り往還」のところどころに、石田三成や嶋左近の旗印が建っていました。
 今回の調査について、現地説明会資料には、佐和山の「山中の曲輪で実施される初めての考古学的調査でしたが、現地には良好な状態で遺構が残存していることが確認できました。また、周辺の景観を検討・復元する上で貴重な考古学的な成果を得ることができました」と記されています。今後、他の曲輪の発掘調査を続ければ、新たな発見があるかもしれず、大いに期待したいところです。しかし、佐和山城には長い歴史があり、秀吉時代も城主がたびたび変わっているので、その遺構がいつの時代のものであったのか、確定するのはなかなか難しい点があるのではないでしょうか。三成が城主であったのはわずか5年間のことです。
 これも前述したように、説明会があった現地は塩硝櫓の碑が建っている、三段構造の曲輪の一番下のところであり、実際は塩櫓があったところです。本当の煙硝櫓があったのは、三段構造の曲輪の一番上のところであり、そこから本丸まではわずかの距離だという指摘は、田附清子氏の講演会「三成と佐和山城」でされていました。
 佐和山城落城の際、天守に火をかけたという記述が「結城秀康文書」にありますが、実際焼けたとしても大幅に焼けたわけでないことは、東軍が佐和山城に入った時に、城内の造りが質素だったということを述べたという記述や、その後、すぐに井伊直政が佐和山に入城し、居住していることによってもわかります。
 講演会では、三成が二度の加増を断り、秀吉のそばにいる道を選択したということも述べられていました。一度目は秀次事件の後、今一度は小早川秀秋が越前に転封になった時です。史料として「豊臣秀次遺領配分」を記した秀吉朱印状と、大音新介宛の三成自筆書状が取り上げられていました。前者は先月行われた矢部健太郎氏の講演会でも取り上げられていましたし、後者は中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)にも掲載されています。
 「豊臣秀次遺領配分」には、三成には秀次の領地であった清州21万石が与えられることになっていたことが記されていますが、佐和山10万石は京極高次に与えられることも記されています。その「近江さわ山」のところには、「石治少跡」と記されていますが、このことについても、講演会で説明がありました。
 「石治少」とは、石田治部少輔」のことであり、天正19年(1591)に佐和山は豊臣家の直轄地となり、三成はその代官になったことから、そう記載されているのだと。
 

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