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zoom RSS 石田三成の実像1509 神屋宗湛屋敷跡・小野善生氏講演3 三成の功を奏したフォロワーシップ 博多復興

<<   作成日時 : 2015/11/12 18:52   >>

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 写真は福岡の神屋宗湛屋敷跡碑を9月21日に撮ったものです。前日に名護屋城を回った後、この日は唐津城を見た後、車で福岡に入り、三成ゆかりの地をいろいろ回りました。屋敷跡碑は豊国神社の敷地内に建っています。
 そばにある神屋宗湛屋敷跡の説明掲示板の中に、次のようなことが記されています。
 「特に豊臣秀吉から厚遇された宗湛は、天正15年(1587年)の博多復興に際して、この地に広大な屋敷地と町役免除の特権を与えられました。宗湛はその恩に報いるため、早くから邸内に秀吉の霊を祭りました」と。
 11月1日に長浜市石田町で行われた「三成祭」の際の小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の功を奏したフォロワーシップとして、三献茶、賤ヶ岳の戦いにおける諜報活動と兵站、栄転の拒否の他に博多の復興が挙げられていました。
 博多の復興については、「キーパーソンの見極めと人脈の構築」と述べられ、「目的構築にあたって有力なパートナー(神屋宗湛)との関係を築く」と説明されていました。
 三成が博多の復興に貢献したのは、天正15年(1587)の九州攻めの折であり、博多町奉行に任じられています。このことについて、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、次のように記されています。
 「この時の町割奉行は、三成を筆頭に長束正家・小西行長・滝川雄利・山崎片家等である。三成は、十町四方を境界として、縦横碁盤状に街路を区画し、離散した町民を呼び集め、資金を貸し与えて店を開かせ、楽市と定めて商売を奨励し、これより博多の町は日々繁栄し、今日に至ったと伝えられている」と。
 博多町奉行に任じられた前後のことについて、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏の『織豊期主要人物集成』【思文閣出版】所収)の「天正15年」の項に次のようなことが記されています。
 島津攻めの後、「筑前箱崎に凱旋。長束正家・小西行長らとともに博多復興を期した町割りの奉行に就いたとされる。この間、6月25日には細川幽斎とともに、上洛のため博多まで北上してきた島津義久を訪ねている(『薩摩旧記』)」などと。
 秀吉・三成と宗湛との最初の関わりについては、長浜城歴史博物館発行の図録「特別展覧会 石田三成 第二章」の「神屋宗湛像」の解説文の中に、天正「15年正月の豊臣秀吉の大坂城内の大茶湯に招かれ、秀吉に謁見し『筑紫ノ坊主』と呼ばれて殊遇を受けた。その後豊臣秀長、石田三成、千利休等堺商人と親交を結び唐津に帰った」と記されています。 
 

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