関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1510 福岡の豊国神社・宗湛と宗室・小野善生氏講演4 功を奏したリーダーシップ1

<<   作成日時 : 2015/11/13 17:11   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
写真は福岡の豊国神社を9月21日に撮ったものです。階段を上ってお参りできるようになっています。昨日の拙ブログ記事に貼付した神屋宗湛屋敷跡碑は鳥居のそばにあります。
 昨日も触れたように、11月1日に長浜市石田町で行われた「三成祭」の際の小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の功を奏したフォロワーシップの1つに、博多の復興が取り上げられていましたが、「キーパーソンの見極めと人脈の構築」と述べられ、「目的構築にあたって有力なパートナー(神屋宗湛)との関係を築く」と説明されていました。
 博多の復興のパートナーとしては、神屋宗湛と同様博多の豪商であった嶋井宗室がいました。9月21日は、この後、嶋井宗室屋敷跡を訪ねましたが、神屋宗湛屋敷跡とはせいぜい百メートル余りしか離れていません。
 宗湛と三成の親しさを示すものとして、宗湛宛の三成書状が残っています。文禄4年(1595)8月7日付のもので、大阪城天守閣が所蔵しています。長浜城歴史博物館発行の図録「没後四百年特別展覧会 石田三成」にこの書状が掲載されていますが、秀次事件直後のことであり、「京都の儀が静まったと文中にある」と記されています。事件について具体的なことは書状には書かれていませんが、こういうことを記して知らせること自体、親密さを物語っている気がします。
 また三成は宗湛の茶会に招かれていますが、そのことは「宗湛日記」に記載があり、それをもってしても、二人の交友ぶりがうかがえます。
 これも前に触れたことですが、秀吉が博多の復興を命じたのは、当初は博多を大陸侵攻の拠点にするつもりだったからです。
 神屋宗湛と嶋井宗室は、文禄元年3月に、博多津の蔵を全部開けて、兵糧米を整えるようにとの秀吉の命令を小早川隆景を通じて受けています。
 さて、小野氏の講演会で、三成の功を奏したリーダーシップについても述べられていましたが、その1つとして、大坂城の浸水を防いだことが挙げられていました。「非常時における大胆な意思決定」と述べられ、「リスク計算(大坂城が水浸しになる損害と土嚢の代用として使用する蔵米のロスを計算)によって危機を回避」したと説明されていました。
 この逸話は、淀川の堤防が決壊した時、三成は蔵の米俵を運ばせて決壊箇所を防ぎ、晴れた日に農民たちに土俵を作らせて土俵一俵と水につかった米俵一俵を交換したというもので、江戸時代に書かれた「名将言行録」などに記されています。
 
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1510 福岡の豊国神社・宗湛と宗室・小野善生氏講演4 功を奏したリーダーシップ1 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる