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zoom RSS 石田三成の実像1511 嶋井宗室屋敷跡・小野善生氏講演5 功を奏したリーダーシップ2 島左近の登用

<<   作成日時 : 2015/11/14 11:06   >>

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 写真は福岡の嶋井宗室屋敷跡を9月21日に撮ったものです。宗室もまた博多の復興に尽くし、三成との関わりも深かった人物です。長浜城歴史博物館発行の図録「特別展覧会 石田三成 第二章」には、嶋井宗室宛の三成書状が二通掲載されていますが、嶋井家文書中には「八通の三成文書が残され」、「それらによれば、三成は度々嶋井宗室の家を宿所として利用していたことが知られる」、「天正15年6月には島津攻めからの帰りに、秀吉が筥崎で行った茶会に何回か招かれている。三成との接触は、こういった機会になされたものであろう。しかしながら、嶋井宗室は秀吉の朝鮮出兵には反対し、対馬の宗義智と共に戦争回避を画策していたが果たせなかった」、「しかし、嶋井家文書によれば名護屋や朝鮮へ行き来する三成との関係は、より一層親密さを増したようである」などと解説されています。
 三成も朝鮮出兵に反対だったことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも触れられています。すなわち、「三成は、戦いの始まる前に、博多の商人・嶋井宗室と図って戦いをやめることを秀吉に進言した記録が享保年間(1716〜1735)の著述集『博多記』に残っている」と。
 前述したように、11月1日に長浜市石田町で行われた「三成祭」の際の小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の功を奏したフォロワーシップの1つに、博多の復興が取り上げられていましたが、逆に三成の功を奏したりーたーシップとしては、昨日付拙ブログ記事で紹介した「大坂城の浸水を防いだ」ことの他に、「島左近の登用」が挙げられています。
 そのことについて、「必要不可欠なものに対する大胆な投資」と述べられ、「自分に足りないもの(戦の知識と采配能力)を補うために最高の人物に最高の待遇(石高の半分)を用意」したと説明されていました。
 これは三成が四万石の城主だった時に、二万石の高禄で島左近一人を召し抱えたという有名な逸話ですが、三成が水口城主になったことはなく、この話は成り立ちません。このことは、「三成伝説」でも指摘されていますが、「左近が三成に仕えたことが世間に驚きをもって受け取られたということであり、左近はそれほどの人物であったということであろう」とも記されています。
 私自身は、こういう逸話ができた背景として、三成と水口は何らかの関係があったのではないかと思っています。中村一氏が水口城主になったのは天正13年(1585)ですが、それ以前、それ以後に三成が水口の一部を拝領していた時期があった可能性があるのではないでしょうか。あるいは、三成の父である正継の生母が甲賀郡の多喜資盛からの拝領妻であった(白川亨氏「石田三成の生涯」【新人物往来社】)ことも影響しているかもしれません。
 

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