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zoom RSS 石田三成の実像1513 小野善生氏講演7 三成の不本意な結果となったフォロワーシップ1 清正の蟄居?

<<   作成日時 : 2015/11/17 11:16   >>

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 11月1日に長浜市石田町で行われた「三成祭」の際の小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の不本意な結果となったフォロワーシップとして、「忍城水攻め」「加藤清正蟄居」「豊臣秀次追放」が挙げられていました。
 まず「忍城の水攻め」については、「主君の命令(忍城の水攻め)に従順すぎる一面」があると説明されていました。
 これは忍城の水攻めが三成の考えたものではなく、現場を見ない秀吉が命令したものであるという中井俊一郎氏の見解によるものだと考えられます。講演会のレジュメの最後に、参考文献が掲載されていますが、その中に、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)と中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)が挙げられており、その両書の中で水攻めに関する中井氏の見解が述べられています。
 もっとも、「従順すぎる」というのは言い過ぎかもしれません。三成が水攻めに反対した上司である浅野長吉に宛てた三成書状が、「石田三成からの手紙に掲載されています」(「三成伝説」にも一部掲載されています)。三成は秀吉や上司に従順だったわけではなく、反対意見も敢えて述べることも厭いませんでした。しかし、秀吉の命令は絶対であり、それに不本意ながら従わざるを得なかったことを中井氏は「中間管理職の悲劇」(『歴史と旅』1999年4月号)と指摘されています。
 「加藤清正蟄居」については、三成が「主君へのフォロワーシップに長けるも、同僚に対するフォロワーシップが不足」していたと説明されていました。
 確かに、清正ら七将は、前田利家の死の直後に三成たち奉行を襲撃しようとしましたから、その時点で清正らは三成等にいい感情を持っていなかったと思われますが、その確執を以前の段階まで持ってくるのは問題ではないでしょうか。加藤清正の蟄居もその例であり、通説では、三成らの讒言によるものだとされてきました。さらに蟄居中の清正は、大地震が起こった際、大勢の家臣を引き連れ伏見城に駆け付けたため、秀吉に褒められ、蟄居が解かれたという、いわゆる「地震加藤」の話も世に喧伝されています。
 しかし、これらのことについては、前にも拙ブログ記事でも記したように、研究者によって否定的な見解が示されており、清正の蟄居自体が、そもそもあったのかということに対して、疑問が呈されています。朝鮮半島から清正が日本に呼び戻された件について、清正が和平交渉の妨げになるため罪を着せられて日本で蟄居させられたというのが通説でした。しかし、実際は、和平交渉に当たって、明の勅使を迎えるために秀吉に呼び戻され、京や大坂で準備に当たっていたのではないか、地震当時伏見にいた可能性は低いという指摘が、熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯」でされています。また同書には、伏見大地震直後の閏7月15日付の家臣宛の清正書状が取り上げられ、謹慎中であった雰囲気は感じられないとも述べられています。
 

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