関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1514  京都探訪266  仙洞御所参観7 中島から北池・京都新城の北政所の役割

<<   作成日時 : 2015/11/18 11:51   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
 写真は仙洞御所の中島から北池の東端あたりを10月8日に撮ったものです。中島を間にして、西側に北池が広がっています。
 さて、何度も拙ブログで触れているとおり、仙洞御所は江戸時代に作られましたが、豊臣時代はその地に「京都新城」がありました。北政所は秀吉の死後、大坂城から出て、京都新城に移りましたが、その理由について跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」(名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」所収)の中で、通説で言われているように淀殿との不仲が原因ではなく、生前の秀吉の意思に添ったものであったと指摘されています。その根拠として挙げられているのは、「西笑和尚文案」の記述です。すなわち、「秀吉は亡くなる直前、秀頼を大坂に置き、自分と北政所は伏見に『隠居』する計画を周囲に漏らしていた」という内容です。「じっさいの『隠居』地は変更となったが、彼女が秀頼や淀殿と離れて暮らすのは、秀吉生前からの既定の方針にのっとっていた可能性が高い」と論じられています。
 福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)では、北政所が京都に移った後の、慶長4年「10月11日に寧の奏請により内侍所で臨時神楽が催され、15日には禁中のお日待に白鳥を献じるなど(『湯殿』『言経』)、朝廷との結びつきを深めることに重きが置かれている。これは聚楽城にいるころから、寧に与えられた妻としての役割であった」と記されています。
 北政所が大坂城を出て、京都新城に移ったことについて、藤田恒春氏の「北政所(高台院)の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)の「慶長4年(1599)」の項には、次のように記されています。
 「9月7日、徳川家康が伏見城から大坂城へ入り、呼応するかのように北政所は同26日、大坂城西の丸屋敷を出、京都新城へ移った」と。
 このようなところから、北政所は西の丸を家康に譲ったという捉え方がなされ、北政所=家康、淀殿=三成という説がまかり通る大きな要因となっています。この翌年の7月、三成が挙兵した直後に出された、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」では、家康の罪状の1つとして、北政所を西の丸から追い出したことが挙げられています。むろん、これは西軍の勝手な言い分ですから、その点は割り引いて考えねばなりませんが、ある程度真実を突いているのではないでしょうか。
 なお、三成は北政所が京都新城に移った時には、隠居して佐和山にいましたが、前田利長らによる家康暗殺未遂事件が起こり、家康の要請に応じて越前に出兵しています。

 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1514  京都探訪266  仙洞御所参観7 中島から北池・京都新城の北政所の役割 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる