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zoom RSS 京都探訪268石田三成の実像1518 妙法院特別公開2 宸殿・豊公遺宝・バテレン追放令の緩和を求める

<<   作成日時 : 2015/11/24 11:08   >>

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 写真は妙法院の宸殿を11月5日に撮ったものです。特別公開中の妙法院の内部は撮影禁止でしたが、外から写真を撮るのはOKでしたので、庫裏を出て、普賢堂を見に行く時に、撮りました。宸殿は寺の中心に位置し、本来なら本堂が建っているべき場所ですが、天皇家が訪れるところなので、宸殿という御殿になっています。幕末の八月十八日の政変で、長州藩が朝廷から追い出された際、長州藩寄りの七卿がこの宸殿に集まって、ここから長州藩の人々と一緒に長州に落ちて行きました。
 このことについて、中村武生氏の「池田屋事件の研究」(講談社新書)の中で、「在京の長州勢力は、いったん洛東大仏御殿こと妙法院に立て籠もったが、一戦することなく、三条実美ら七卿を擁して西下(七卿落ち)」と記されています。
 妙法院には秀吉関係の遺物である「豊公遺宝」も展示されていましたが、妙法院に寄進された経緯について、妙法院門跡発行の書物 「国宝 三十三間堂」に次のように記されています。
 「秀吉の甲冑をはじめ、秋草蒔絵文台(重文)を含む豊公遺宝は、元和2年(1616)、家康が常胤法親王に寄進したものである(豊公遺宝図略ー1823年刊)」と説明されています。
 「常胤法親王」については、同書に次のようなことが記されています。
 豊臣氏滅亡直後の、元和元年「7月、家康は豊国神社を閉鎖し『豊国大明神』という神号を止めて、法号『国泰院殿』を用い、仏式で祀るべきこととした。また方広寺別当照高院興意法親王は退けられ、替って妙法院常胤法親王が兼職することとなった」と。
 また「同年8月29日、豊国社の御神物であった北政所や太閤の装束・道具74種が梵舜から妙法院に贈られ、また9月2日、豊国祭の狩衣など衣裳・道具の数百点が納入され(以上妙法院古文書)、やがて、豊国社は元和5年9月18日、妙法院に引き渡された(梵舜日記)」と同書には記されています。
 「豊公遺宝」の中には、「ポルトガル国印度副王信書」があり、展示されていました。この信書は1588年(天正16年)、ポルトガル領であったゴアのインド副王から豊臣秀吉に宛てたものです。その信書には秀吉の天下統一を祝うと共に、バテレン追放令の緩和を求めたことなどが書かれています。
 バテレン追放令は天正15年(1587)6月19日付で、島津攻めの直後に出されました。バテレン追放令は、生駒親正と石田三成が箱崎宮の座主に命じて博多・箱崎に回覧させたという「豊前覚書」の記述が、山本博文氏の「天下人の一級史料」(柏書房)の「バテレン追放令」で引用されています。この時、秀吉も三成も箱崎にいました。 

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