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zoom RSS 石田三成の実像1519 旅行記61 名護屋・福岡旅行22 遊撃丸・偽使節をもてなす・大坂遷都計画

<<   作成日時 : 2015/11/26 11:30   >>

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 写真は名護屋城の遊撃丸を9月20日に撮ったものです。本丸の北西に位置し、本丸を出て馬場、二ノ丸をぐるりと回って、遊撃丸にたどり着きました。遊撃丸について、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の中で、「東西約70m、南北約60mの長方形基調の曲輪である。『遊撃』の名称については、明国の『遊撃将軍』沈維敬に関連するとも伝えられるが詳細不明」などと記されています。
 「遊撃丸」の説明掲示板には、「文禄2年(1593)に明国の講和使節(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれています」などと記されています。
 明国使節を名護屋まで引き連れてきたのは、小西行長と増田長盛・大谷吉継・三成の三奉行らでした。しかし、この使節は正式の使節ではなく偽物でした。その点について、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で、「明軍は明軍として、みずからの国家的体面を傷つけることなく日本国内を探情する目的を持たせて、彼ら偽りの使節を日本側の陣営に投じた」と指摘されています。
 さて、跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」(名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」所収)では、秀吉は天正11年の大坂城築城開始と同時に、大坂遷都をくわだてていたことにも触れられています。秀吉は「正親町(おおぎまち)天皇に大坂移住を要請し」ますが、「天皇は拒絶」しました。「十六・十七世紀イエズス会日本報告集」に記されているその理由が、同書で取り上げられています。
 すなわち、「その身を国外に移すことは[三百年以上の間、先祖が行なわなかったこと故]新奇であり、思慮が足りぬと評されかねず、日本のすべての君侯貴族と協議すべきであり、彼らがこれを承認した後、内裏はその可否を考えるであろう」と。
 また跡部氏の同書では、「秀吉が天皇権威に接近した契機」について、小牧・長久手の戦いで家康に敗れた秀吉が、「信長以来の軍事的征服路線から天皇権威を活用する路線に転換した、と説くような」池亨氏らの見解を取り上げ、それに否定的な見解が示されています。
 すなわち、「天皇を頂点にいただく伝統的制度と一体化せんとする態度は、すでに合戦前に固まっていた」と。秀吉の姿勢について、「自身を天皇権威の復興者と規定した」とも述べられ、それはずっと変わらなかったと指摘されています。
 なお、小牧・長久手の戦いの際は、三成も秀吉に従って、陣所にいたことが、「宇野主水日記」の4月20日条に記載されています(中野等氏「石田三成の居所と行動」)。
 

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