関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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<<   作成日時 : 2015/11/28 11:19   >>

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 写真は名護屋城の遊撃丸を9月に撮ったものです。遊撃丸が石塁に取り囲まれていることがよくわかります。
 この点について、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋と『天下人』秀吉の城」の「遊撃丸」の説明文の中に次のように記されています。
 「曲輪の周囲は高さ3m前後の石塁で囲み、石塁上に連絡する石段も5箇所と比較的多く、防御意識の高さが窺われる」と。
 上の写真からは、遊撃丸が長方形になっていること、及びその広さの一端がうかがえます。われわれ一行は、遊撃丸から下に降りて、道を東にたどり、秀吉などの住まいがあった山里丸の方に向かいました。
同図録には、文禄2年5月22日付のおね(北政所)宛の豊臣秀吉自筆書状が掲載されています。偽の明国使節が秀吉に謁見する前日の書状であり、その内容について、図録の解説文に次のように記されています。
 「秀吉は、明国使節を『わひ事(詫言)』の勅使とし、条数書(和平条件)を示したこと、それを明国が受け入れれば許し、『かいちん(開陣・凱陣)』すると記す。また、『高麗』において普請等を命じているのでもう暫く時間がかかるが7・8月には会えると述べ、さらに、『にのまるとの』=淀殿が懐妊したことにも触れている(淀殿が懐妊した子は、文禄2年8月に誕生する後の秀頼)」などと。
 中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)には、上記のおね宛の秀吉書状と、同日付の毛利輝元や小早川隆景宛の秀吉書状との内容が比較されています。
 すなわち、輝元や隆景宛の書状は、「秀吉は具体的な和平案を『条数』をもって提示するものの、講和の決着について必ずしも楽観しておらず、晋州城以下の制圧が朝鮮の諸将に課された至上命題であるとつげている」のに対して、おね宛の書状は、「明側の条件受け入れを前提として、講和成立に関しての楽観的な見通しを述べている」と。
 前述したように、偽の明国使節を名護屋に伴ってきたのは、小西行長、増田長盛、大谷吉継、石田三成たちでした。彼らは一刻も早く講和を整えようと必死でしたし、それだけ朝鮮半島の戦いの悲惨な実情を彼らはよく理解していたわけです。
 上記の書状で、淀殿の懐妊のことに触れていますが、淀殿が男子を出産したとの知らせを受けて、名護屋を後にしたのは8月15日のことです。

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