関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1521 文禄の役 和平交渉と晋州城攻撃を並行・ 「大明日本和平条件」の提示

<<   作成日時 : 2015/11/30 10:38   >>

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 名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋と『天下人』秀吉の城」に文禄2年5月22日付のおね(北政所)宛の豊臣秀吉自筆書状が掲載されていること、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)に、その書状と同日付の毛利輝元や小早川秀秋宛の秀吉書状との内容が比較されていることを拙ブログ記事で前述しました。輝元や隆景宛の書状には晋州城攻撃のことについても述べられていますが、秀吉は和平交渉と並行して、晋州城攻撃を進めるという和戦両用の作戦を取っていました。
 しかし、これは矛盾ではないことが中野等氏の同書で指摘されています。「秀吉の基本姿勢は、あくまで朝鮮全土(八道)の席捲を前提とした都漢城と北四道(咸鏡・平安・黄海・京畿道)の返還である。秀吉は、これ以外の四道、(中略)については、みずからの領域として確保する意向を強く持っていた」と。
 中野氏の同書には、「文禄2年5月20日付の豊臣秀吉朱印『覚』による布陣計画」が掲載されています。出典は「島津家文書」です。それには、「もくそ(晋州)城取り巻き人数の事」「釜山海にこれ在る衆」「から嶋(巨済島)請け取り衆」「かとく嶋(加徳島)への衆」に分類されて各大名の人数が表にされ、総人数は「121870人」と記されています。
 このうち、石田三成は宇喜多秀家、大谷吉継たちと共に、「もくそ(晋州)城取り巻き人数の事」の「一備」として組み込まれており、三成隊の人数は「1646人」と記されています。もっとも、三成も吉継も和平交渉に加わり、明国使節に従って名護屋へ行ったり、朝鮮半島に送り届けたりしていますから、彼ら自身が晋州城攻撃に加わることはありませんでした。
 晋州城が陥落したのは6月29日であり、その前日に、秀吉は小西行長・増田長盛・大谷吉継・石田三成に宛てて「大明日本和平条件」を提示しています。この後、明国使節は名護屋を発って、朝鮮半島に戻ります。使節が名護屋に来てから、一ヶ月以上滞在したことになりますが、この理由について、中野氏の同書には、「講和条件に関して朝鮮の勅許をうる必要があったためである」と記されています。
 「この間『明使』の一行は名護屋城内に設けられた『黄金の茶室』で饗応をうけ、舟遊びなどに興じている」ということも記されています。「明使」と括弧付なのは、正式の使節ではなく、偽の使節だからだと思われます。
 もっとも、三成らはこの間、ずっと名護屋にいたわけではなく、明使を名護屋に送りとどけると、5月24日に名護屋を発って朝鮮半島に戻っています。その後の三成の行動について、熊川城を訪問するなどして、「構築中の各要害(いわゆる『倭城』)を具に見聞した可能性がある。まもなく帰還する明使を迎えるため再び名護屋へ戻っている」と中野氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)に記されています。 

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