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zoom RSS 石田三成の実像1527旅行記67名護屋・福岡旅行27 虹の松原・寺沢広高も取次・島津氏への三成の取次

<<   作成日時 : 2015/12/10 10:43   >>

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写真は唐津の虹の松原を9月に撮ったものです。砂浜から撮りましたが、唐津城へ行く前にへ立ち寄りました。虹の松原は若い時に来て以来です。
 虹の松原について、唐津城のパンフレットに、「初代藩主の偉業」として、次のように説明されています。
 「初代藩主の寺沢広高が慶長年間から植林したもの。約100万本の黒松の群生は潮風を防ぎ、当時からこの地に豊かな農地をもたらすことになった」と。
 写真からは虹の松原の壮大さは伝わってきませんが、車で松原の中をずっと通っていると、その規模の大きさがうかがえます。
 光成準治氏の「秀吉は、『大名統制』をどの程度できていたのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』【歴史新書y】所載)の中で、「取次」のことも論じられていますが、その中で「朝鮮侵略期には寺沢正成(広高)が九州『取次』として働いた」と記されています。
 これは山本博文氏の「取次」論を紹介する中で記されていることですが、山本氏によれば、「取次」は時期によって2つに分類され、「第一は、秀吉が全国統一を成し遂げる過程における『取次』であ」り、「第二は、大名が豊臣政権下に服属した後の『取次』である」と分けられています。第二の「取次」として、東国では浅野長政、西国の島津氏では細川幽斎と三成、九州では寺沢広高が挙げられています。
 光成氏の同書では、三成の取次の役割を、三成が島津氏に出した発給文書から次のように明らかにされています。
 すなわち、「三成は、秀吉の意向や大名愁訴(大名からの要望)の伝達、上洛時の行動に関する指導といった上杉氏に対する取次行為と類似した役割も果たしている。さらに、豊臣政権から命じられた軍役や公役などの公儀に関することのみならず、『内々』の領国内政治に関する指導も三成が行っている点に特徴がある」
 「三成は機械的に秀吉の意思を伝達するのみではなく、自らの判断に基づき政策指導を行った。また、情報の取捨選択をしたうえで、秀吉に報告するという面を持っており、後見人としての機能も担っていたといえよう」などと。
 また「三成が取次を行っている大名は数多くありますが、島津氏のように家臣団統制まで指導することはありません」という三成の家臣である安宅秀安の書状の記述も紹介されています。
 いかに三成が島津氏の内部にまで立ち入っていたかがわかりますし、島津氏は「厳格な統制を受け」ていたと指摘されています。むろん、これは統制を厳しくせよとの秀吉の意向を受けてのことでしょうが、具体的なことについては、三成に任されていたこともわかります。

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