関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1528 小野善生氏講演12 不本意な結果となったリーダーシップ2 関ヶ原合戦2

<<   作成日時 : 2015/12/12 10:53   >>

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 前述しているように11月1日の「三成祭」の午後に長浜市石田町の石田会館で行われた小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の不本意な結果となったリーダーシップとして、「関ヶ原の戦い」が取り上げられていました。その要因の2点目として、「不安定な結束力」が挙げられており、「島左近・大谷吉継らの奮闘もあるが、小早川秀秋の致命的な裏切り」があったと説明されていました。
 小早川秀秋は関ヶ原の戦いで裏切ったというのが従来の通説的な見方ですが、これに対しては、さまざまな疑問が呈され、再検討が加えられています。三成たち西軍が大垣城を出て関ヶ原に移動したのは、松尾山に動きの怪しい秀秋が陣取ったため、秀秋の動きを牽制したという見解が中井俊一郎氏によって示され、そのことはオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記されています。
 松尾山は三成らが西軍の総大将の毛利輝元に入ってもらおうと思っていた要所ですが、秀秋はそれを知っていたかどうかが問題となります。以前のNHKの歴史番組「堂々日本史」では、秀秋は松尾山が戦いの場所になるとは思っていないという見方が示されていましたが、確かに松尾山に陣取る直前の秀秋の動きは高宮に滞在するなどして、動きは鈍いものでした。しかし、松尾山には西軍の伊藤盛正が陣を置いていましたから、彼を追い出しての布陣は、積極的なものがあったのではないかと思われます。
 関ヶ原の戦い直前の家康と秀秋との関係については、以前、彦根で行われた歴史手習塾のセミナー、桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」の中で、史料として「板坂卜斎 慶長記」が取り上げられ、それをもとに論じられていました。家康が江戸を出立して西に向かったのは9月1日であり、3日に小田原に秀秋の使者がやってきますが、家康は門前払いしています。ところが、8日に遠江国白須賀に秀秋の使者がやってきた時には、家康は同じく対面はしなかったものの、対応が違っていました。その時のことについて、「慶長記」には「御前へは出ず、よきごあいさつと申し候」と記されています。桐野氏の著書「謎解き 関ヶ原合戦」(アスキー新書)には、この記述について、「家康は美濃表での対陣を少しでも有利にしようとして、秀秋の懐柔に転じたと思われる」と解説されています。セミナーでは、この時期は秀秋が伊勢から反転した時であると、指摘されていました。「慶長記」の9月14日条に、「筑前中納言殿むほんと風聞候」との記述がありますが、これについて「小早川勢が伊藤盛正を追い払ったことを指しているのかもしれない」と、桐野氏の同書に記されています。
 小早川秀秋が関ヶ原で裏切ったという通説について、疑義が唱えられているわけですが、秀秋が関ヶ原合戦のキーマンになったという事実には変わりありません。

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