関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1529 小野善生氏講演13 不本意な結果となったリーダーシップ3 関ヶ原合戦3

<<   作成日時 : 2015/12/14 10:22   >>

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 前から述べていることですが、11月1日の「三成祭」の午後に長浜市石田町の石田会館で行われた小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の不本意な結果となったリーダーシップとして、「関ヶ原の戦い」が取り上げられていました。その要因の3点目として、「長期的な展望の欠如」が挙げられていました。これは、三成は家の存続などは度外視し、関ヶ原の敗戦で、結局、家は滅ぼされたという意味で使われており、その反対に、直江兼続はうまく生き延び、家は存続できたと説明されていました。
 家の存続を自分の家に限ってみれば、確かに、石田家は滅び、父親の正継や兄の正澄は佐和山城で亡くなり、生き残った者は各地に離散したり、出家したりしました。次男の重成は津軽藩に匿われたものの、杉山源吾と名を変えざるをえませんでした。一方の直江兼続は兼続は関ヶ原の戦いの後も家老として大幅に減封された上杉家のために尽くしました。もっとも、直江家は跡継ぎもなく、兼続の代で断絶しましたが。
 家を「主家」ということで考えれば、関ヶ原の戦いで秀頼を守り立てる大名たちが一掃されてしまいましたから(むろん、秀頼を主家といただく加藤清正や福島正則の存在はありましたが、少数でしたし、家康に表立って反対することはしませんでした)、結局大坂の陣で、豊臣方に駆け付ける大名家は一つもなく、豊臣家の滅亡を招きました。豊臣家の滅亡を招いたのは三成と淀殿という見方が江戸時代に作られ、それも徳川家に都合のよい徳川史観の一環ですが、関ヶ原の戦いがなくても、家康が有力大名を一つずつ屈服させたり、つぶしていったりして、天下を取ったはずですし、豊臣家を滅亡させるという流れは変わらなかったのではないでしょうか。三成も処刑される前に、遠からず徳川の天下になると見越していたはずですし、豊臣家の存続も危ないと分かっていたはずです。
 家康が有力大名の個別撃破を考え、それが一番リスクのない方法であり、全国を二分するような関ヶ原の戦いは想定していなかったというのが、中井俊一郎氏の見解であり、中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中で、そういう見解が示されています。
 それと同じような見解が、堀越祐一氏の「五大老・五奉行は、実際に機能していたのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』【歴史新書y】)で記されています。
 すなわち、関ヶ原合戦は「家康にとって想定外であったと考えている。自軍と同程度ないしそれ以上の大軍を相手に戦うのは、危険が大きすぎよう。政権奪取が視野に入っていた家康が、そのような危ない橋を渡るとは思えないのである」と。

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