関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1530 治部少丸 小野善生氏講演14 不本意な結果となったリーダーシップ4 関ヶ原4

<<   作成日時 : 2015/12/16 18:35   >>

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 写真は10月31日に彦根で行われたイベント「三成の戦」の後に訪ねた、花しょうぶ通りの「治部少丸」を撮ったものです。今年オープンし、私もこの時初めて行きました。彦根にある三成ゆかりの地を記したマップ、佐和山城のジオラマ、家紋入りの陣笠、手作り甲冑などが展示されています。ここに立ち寄った後、近くの妙源寺での三成、島左近の法要に参加しました。
 その翌日に長浜で行われた「三成祭」の午後の小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の不本意な結果となったリーダーシップとして、「関ヶ原の戦い」が取り上げられ、その要因の3点目として、「長期的な展望の欠如」が挙げられていました。
 この「長期的な展望の欠如」を、三成が豊臣政権の今後の明確な展望を持っていなかったというふうに取れば、それは違っているように思えます。三成が目指したのは、秀頼を上にいただいた上での五大老・五奉行体制の維持ではなかったでしょうか。むろん、五大老のうち家康、前田利長、五奉行のうち浅野長政はそれぞれ東軍に就きましたから、三大老、四奉行体制になったかもしれませんが、集団指導体制で進んでいったに違いありません。
 しかし、関ヶ原の戦いで三成が勝っていたとしても、前途は多難であったことが予想されます。関ヶ原の戦いの際も上杉景勝は関東に攻め入らずに最上領に勝手に攻め込みましたし、毛利輝元は西国で領地を拡大していきましたから、彼らの動きを封じるために苦労したのではないかと思われます。連合政権的な運営のもと、大大名を前にして、ある程度の自由を許容せざるをすえなかったのではないでしょうか。
 朝鮮半島との関係については、三成は修復を図ったと思われます。よく家康が朝鮮国との関係を改善し、それが朝鮮通信使を迎えることにつながったと捉えられており、それは正しいのですが、三成もそうした可能性は高かったのではないでしょうか。もともと朝鮮半島に侵略するには反対の立場でしたし、無謀な戦争の実態を目にして、和平交渉を整えようと尽力しています。秀吉の死後、朝鮮半島からの撤兵を完了させたのも三成でしたし、無事な撤退に安堵したことでしょう。もっとも、秀吉の死によって、政権の先行きに暗雲がたちこめていましたから、安心感に浸る余裕はなかったでしょうが。
 家康は、関ヶ原の戦いに勝っても、豊臣家の大老という立場に変わりなく、秀頼も健在で、そのままでは政権を奪取するのは難しい状況でしたから、秀吉が確立した制度の枠組みから抜け出すために、将軍に就任して幕府を開くという方法を取りました。笠谷和比古氏の説く二重公儀体制がどこまで存在していたのかという議論は別として、家康が幕府を開いた後も、秀頼は権威的にはずっと侮りがたい存在としてありました。家康が孫娘の千姫を秀頼に輿入れさせるなどの宥和策を取りながらも、結局は大坂の陣を引き起こしたのはむしろ、家康側にとっては当然のなりゆきだったと思われます。

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