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zoom RSS 石田三成の実像1522 小野善生氏講演10 不本意な結果となったフォロワーシップ3 藤田達生氏の論考

<<   作成日時 : 2015/12/02 21:17   >>

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 11月1日の「三成祭」の午後に長浜市石田町の石田会館で行われた小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の不本意な結果となったフォロワーシップの一つとして、「豊臣秀次追放」が挙げられていました。
 これも、秀次事件について三成が深く関与していたという捉え方に基づくものですが、藤田達生氏の見解はさらにそれを極端に推し進めたものです。今年10月に発行された「織豊期研究」に掲載されている藤田氏の論考「文禄四年政変と近江佐和山城」の中で、秀次事件は三成派閥が起こしたという論が展開され、「文禄4年政変は、豊臣政権の専制化を促進し、国内外で強硬路線へと導いた」と結論付けられています。
 前述したように「専制化」というのが事実ではありませんし、後半の「国内外で強硬路線へと導いた」という見方にも同意しかねます。
 特に三成が「国外の強硬路線へと導いた」ということについては、全く違います。三成は秀次事件の翌年、明との和平交渉のため来日した使節の接待に当たっていますし、和平交渉を整えようと懸命になっていました。しかし、和平交渉は、周知の通り、失敗しました。交渉に関わった三成は責任を問われたのではないかと思われますし、それが証拠に三成は慶長の役では渡海もしていません。それは、和平交渉に関わっていた増田長盛も大谷吉継も同じことでした。もっとも、吉継は病気の悪化という要因もあったのかもしれませんが。同じく和平交渉に当たっていた小西行長だけは別であり、慶長の役では先頭に立って渡海していますが、朝鮮のことに詳しい行長は出兵に欠かせないと秀吉は考えたのではないかと思われ、交渉失敗の責任をそういう形で取らせたのでしょう。
 三成が朝鮮侵略に批判的だったことは、文禄の役の際、現地の悲惨な様子をつぶさに知らせ、このままでは日本人は一人もいなくなってしまうということまで述べた三成ら三奉行書状案によってよくわかり、三成が侵略を推進していたという見方は、おそらく江戸時代に形成されたものではないかと思われます。
 三成が朝鮮の役の際に清正らを讒言したという捉え方も再検討する必要があります。清正は文禄の役の際、三成らの讒言にあい、帰国させられたという説がまかり通っていますが、それについては、拙ブログ記事でも述べたように、清正は和平交渉のために日本に呼び戻されたのであって、伏見大地震の時にも清正が蟄居させられていた形跡はないことが指摘されています。
 慶長の役には、三成は渡海せず直接関与していませんから、強硬路線を取れるはずはありません。しかし、三成と姻戚関係にある福原長尭や熊谷直盛らが奉行を務めており、奉行の報告によって諸将が処分されましたから、諸将の不満が三成に向かうという不幸な結果を招きました。
 

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