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zoom RSS 石田三成の実像1534 碧蹄館の戦いの立花宗茂の戦功を賞賛した秀吉朱印状・三成の正しい戦略眼

<<   作成日時 : 2015/12/23 00:11   >>

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 佐賀県立名護屋博物館発行の図録「秀吉と文禄・慶長の役」の中で、文禄2年4月3日付の立花宗茂宛の豊臣秀吉朱印状が掲載されています。その解説文には、次のように記されています。
 「秀吉が、文禄2年1月の碧蹄館の戦いにおける立花宗茂の戦功を賞賛した内容の感状。立花軍は、碧蹄館の戦いにおいて先鋒を務め、多くの兵を失いながらも明国・朝鮮国軍の撃退に大きく寄与した」と。
 碧蹄館跡地には、2002年5月にオンライン三成会の有志の人々と訪ねたことがありますが、碧蹄館古戦場碑は、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中で、写真とともに取り上げられています。
 碧蹄館の戦いにおける立花宗茂の活躍について、中野等氏の「立花宗茂」(吉川弘文館)の中で、次のように記されています。
 すなわち、「先鋒第一隊の立花宗茂・高橋直次の軍によって早暁に戦端はひらかれ、第一隊は立花家中十時(ととき)伝右衛門ら500名近くを失いながら、明軍の攻撃を支えきり、結局は碧蹄館の地形を利用した(小早川)隆景の包囲策が功を奏して先鋒隊は明軍の撃退に成功する。『立花家文書』のなかには、この時の戦勝を祝す諸将からの書状が多く残っており、その士気は大いに高まったようである。実際、この碧蹄館の敗戦によって李如松は戦意を喪失したと伝えられる」と。
 碧蹄館の戦いの勝利には、立花宗茂らの活躍の「背後には、三成の正しい戦略眼があった」ことが「三成伝説」の中で指摘されています。すなわち、「小早川隆景は、漢城よりずっと北方にある要衝・開城(ケソン)で明軍を迎撃することを主張したが、三成は「大河を背にした開城では、補給を絶たれれば孤立」し、「その危険性を示し撤兵を促」したため、「戦略をめぐる三成と隆景の対立は激化するが、大谷吉継・前野長康らが両者を仲介し、ようやく隆景は撤兵に同意する」と。
 この文章はオンライン三成会代表幹事の中井俊一郎氏によって書かれたものですが、同じ中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)にも同様のことが記されており、三成の戦略は「さらに戦線を下げ、漢城で自軍を結集して明軍を迎え討つこと」だったと指摘されています。
 笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「秀吉の野望と誤算」(文英堂)には、碧蹄館の戦いでの日本軍の陣容について次のように記されています。すなわち、先鋒一番隊として立花宗茂・高橋直次、二番隊は小早川隆景、三番隊は毛利秀包・筑紫広門、四番隊は吉川広家、本隊として五番隊は黒田長政、六番隊は石田三成・増田長盛・大谷吉継ら奉行衆、七番隊は加藤光泰・前野長康ら奉行衆、総大将は宇喜多秀家。三成たち六番隊の人数は6000人でした。

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