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zoom RSS 石田三成の実像1536 柴田勝家像 太田浩司氏の講演「秀吉奉行としての吉継・三成」2 吉継の出自

<<   作成日時 : 2015/12/25 10:27   >>

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 写真は福井市の北の庄城址・柴田公園にある柴田勝家像を昨日撮ったものです。23日、敦賀市博物館で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」に参加した後、福井市まで足を伸ばして一泊しました。昨日は北の庄城址、資料館、福井城跡を見、その後、小浜に行き、山川登美子記念館を訪ねて来ました。両日とも青春18切符を利用しました。
 北の庄城の柴田勝家が秀吉に攻められて亡くなったのは、天正11年(1583)4月のことですが、太田浩司氏の講演会の中で、吉継と三成の、現在の時点の初見文書は同じ天正11年であまり時期が違っていないということも指摘されていました。大谷吉継の初見文書は、天正11年4月16日のものであり、それも講演会資料に掲載されていましたが、三成の初見文書も同年の1月23日であり、そういうことも二人に共通している点だと述べられていました。
 吉継と三成の友情が小説やドラマでよく描かれていますが、実際の二人の思いがどうだったかはわからないものの、講演会では、歴史学的見地から、二人が若い時から行動を共にしていたという事実を、いろいろな史料を使って明らかにされていました。
 大谷吉継は負けるとわかっている戦に、三成への友情から参加したということもよく言われますが、太田氏はそういう捉え方に懐疑的でした。武将だけでなく、一族郎党の運命がかかっているのですから、負けると思っている戦に参加するはずがないと私も思っています。こういう見方が示されているのは江戸時代に書かれた「名将言行録」においてであり(この部分も講演会資料に掲載されていました)、いかにも創られたものだという気がします。
 吉継の出自については、豊後説、近江説、青蓮院坊官大谷家説があるものの、豊後説は成り立たないと講演会で指摘されていました。これは「言行名将録」に「吉隆は大友家の臣なり。大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ」いう記載があるものの、大友家が滅んだのは文禄の役の時のことであり、時代が合わないと説明されていました。近江説は、貞享年間に書かれた「淡海温故録」の「伊香郡」の項に、近江大谷村の出生と書かれていることに基づくもので、また吉継の母の東殿が早くから北政所に仕えて、吉継自身も早くから秀吉に仕えているところから見て、近江説が一番有力だと太田氏は強調しておられました。もっとも、外岡慎一郎が青蓮院坊官説を唱えていることにも触れられ、青蓮院が敦賀とつながりがあり、平城天皇から始まる青蓮院坊官大谷氏略系図なども講演会資料に載っており、説明が加えられていました。
 太田氏は長浜城歴史博物館館長という立場もあって近江説を唱えておられましたが、出自がいずれにせよ、吉継が三成と同じように若い時期から秀吉に仕えていたのは確かだとも述べられていました。

 
    

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