関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1537 お市の方、三姉妹像 太田浩司氏の講演3 賤ヶ岳の戦いでの二人の活躍

<<   作成日時 : 2015/12/26 11:39   >>

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 写真は北の庄城址・柴田公園に建っているお市の方(写真に向かって左側)と三姉妹の像を撮ったものです。ここは柴田神社・三姉妹神社の境内でもあります。この場所で、柴田勝家とお市の方は天正11年(1583)4月に亡くなりました。
 柴田勝家にとって致命的だったのは、同月の賤ヶ岳の戦いで敗れたことでしたが、三成はその直前に諜報活動をしていることを示す称名寺宛の同年の3月13日付の三成書状が残っていますが、敦賀市立博物館で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」の講演会資料に、同年12月23日付の大谷吉継が掲載されています。同じ寺に書状を発していることからも二人の近しさがうかがえます。
 やはり講演会資料に掲載されている花ヶ前盛明氏編の「大谷刑部のすべて」(新人物往来社)の年表には、賤ヶ岳の戦いにおいて、吉継は「すばらしい働き」をするとだけ書いてあって、どういう活躍をしたかは記されていません。この点については、諏訪勝則氏の「大谷吉継激戦譜@ 賤ヶ岳合戦〜小田原合戦」(『歴史読本』2009年7月号所収)の中で、講演会資料にも掲載されていた同年の4月16日付の、勝家方の吉村又吉郎宛の大谷吉継書状が示され、次のように論じられています。
 「その内容は『あなたのお手紙を(主人)秀吉に見せました。織田信雄と一戦を交えています。大垣まで討ち入りました。何か御用があれば承ります。決してあなたを粗略に扱うことはしません』というものである。
 どうやら、吉継は、この合戦において戦闘に参加するというよりも在地の武将との折衝・調略にあたっていたようだ。秀吉の意を受けて、吉継の名で出すからには、秀吉のもとで相応の立場・権限があったことがわかる。(中略)吉継に『七本槍』に匹敵するような武功があったかは疑問の残るところではあるが、『七本槍』に見合うような、調整官としての活躍が読みとれる」などと。
 秀吉の命を受けて諜報活動を行っていた三成も「秀吉のもとで相応の立場・権限があった」と云えます。
 講演会では触れられていませんでしたが、秀吉軍が賤ヶ岳に駆け付けるべく大垣から大返しした時に、松明や握り飯を用意するなどいう仕事に、吉継は三成と力を合わせて当たったのではないかと個人的には思っています。そういう彼らの活躍は史料には残っていませんが、三成の事績として有名な話になっています。これは「志士清談」に加藤清正がしたことと記されているものの、小和田哲男氏の「石田三成」(PHP新書)中で、「加藤清正は秀吉本隊と一緒に移動しているので清正ではありえない。湖北に土地勘がある三成以外にはありえない」と指摘されています。吉継が近江の出身であれば、同じく土地勘があり、こういう兵站的な仕事をスムーズにこなしたのではないでしょうか。
  

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