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zoom RSS 石田三成の実像1538柴田神社 太田浩司氏の講演「秀吉奉行としての吉継・三成」4 共に任官・有馬同行

<<   作成日時 : 2015/12/27 17:28   >>

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 写真は福井市の北の庄城址・柴田公園にある柴田神社の鳥居を1月24日に撮ったものです。福井駅の西側の商店街のそばにあり、写真にも後ろにビルが写っており、町中にあることがわかります。しかし、かつてここに北の庄城があり、城主の柴田勝家と妻のお市の方は秀吉軍に攻撃されて自害し、落城しました。柴田神社には勝家とお市の方が祀られています。関ヶ原の戦いの後、越前に転封となった結城秀康は、北の庄城の北側に、新たな北の庄城を築城しました。それが福井城であり、次に福井城址を訪ねました。歩いて10分余りでしたが、明治4年に城は取り壊され、今は県庁や県警本部の建物などが経っています。
 さて、前日の23日に敦賀市で行われた太田浩司氏の講演「秀吉奉行としての吉継・三成」では、天正11年に賤ヶ岳の戦いが行われ、柴田勝家が滅亡した2年後の天正13年7月、秀吉が関白に任じられた時、吉継は刑部少輔に、三成が治部少輔に任じられ、ここでも二人は一緒に任官したことが述べられていました。
 この任官は、賤ヶ岳の戦いで三成も吉継も功績を上げたからでしょうし、そのことは昨日付拙ブログ記事で紹介した、諏訪勝則氏の「大谷吉継激戦譜@ 賤ヶ岳合戦〜小田原合戦」(『歴史読本』2009年7月号所収)の中で指摘されています。
 吉継や三成が4月24日の北の庄落城に立ち会ったのかどうか、それを示すものは今のところ、見つかっていませんが、秀吉自身が北の庄にいたのは確実ですから、側近の彼らも従っていたものと想像されます。
 秀吉が北の庄に来ていたことは、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、4月「23日越前北庄着」と記され、その典拠として24日付の吉村氏吉宛秀吉書状が挙げられ、また「24日北庄在」とありますが、その典拠は29日付の多賀谷重経宛秀吉書状です。
 講演会では、秀吉が有馬温泉に湯治に行った時、吉継も三成も同行していることを示す、「大日本史料」天正13年9月14日条の記述が取り上げられていましたが、その部分も講演会資料に掲載されています。興味深いのはそこに増田長盛の名があることで、増田もこの後、吉継・三成と行動することが少なくありませんでした。
 秀吉がこの時有馬に行ったことについては、藤田氏の同書にも、9月「14日大阪発有馬へ」とあり、典拠として「宇野主水日記」が挙げられています。また「18日有馬在」とあり、その典拠は同日付の本願寺宛秀吉朱印状です。
 

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