関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1539 勝家の舟橋の鎖 太田浩司氏の講演5 大谷吉継永禄8年生誕説

<<   作成日時 : 2015/12/28 22:10   >>

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 写真は北の城址資料館に展示されていた舟橋の鎖を12月24日に撮ったものです。そばの説明掲示板及び館内に置いてあった「北の庄城址公園 柴田公園のご案内」の中で、「舟橋の鎖」について、次のようなことが書かれています。
 「舟橋とは、川に舟を幾艘も並べて、その上に板を渡すことで架けられる橋のことを言います。古くから舟橋は造られており、全国的にも地名などにその痕跡を読み取ることができます。
 展示されている鎖は、北陸道が九頭竜川と交わるところに、柴田勝家公が天正6年(1578)に渡したと伝えられる舟橋で用いられていたものです。この時の舟橋の大きさは不明ですが、江戸時代後期の『越前国名蹟考』では、舟橋にかかわる多くの記事が記載されています。その中では、川幅105間(190m)、橋長120間(216m)とも記されています。
 また、勝家公の舟橋にまつわる話として、舟橋に用いる舟を越前海岸の各浦から集め、鎖は「刀さらえ」で集められた武器を利用して作ったと伝えられています」と。
 敗者の哀しさで、勝家にまつわるものがわずかしか残っていないのは残念ですが、それは関ヶ原の戦いで敗れた三成も同様です。資料館は無料であり、館内には北の庄城跡や福井城跡に関するパネルなどが展示されています。北の庄城跡の発掘調査の成果も写真入りで説明されていました。
 北の庄城が落城したのは天正11年(1583)であり、この時永禄3年生まれの三成は24歳でした。一般的には永禄2年生まれだとされている吉継は一歳年上の25歳ということになりますが、太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」で、太田氏は敦賀に来て、博物館発行の図録「大谷吉継 人とことば」の年表に永禄8年生まれだと記されているので、驚いたと話されていました。この説は外岡慎一郎氏の見解によるものと思われます。外岡氏の「大谷吉継の生涯」(『歴史読本』2009年7月号所収)にも永禄8年説が採用されていますが、その根拠については記されていません。「兼見卿記」の天正20年1月3日条に、吉継28歳という記述がありますが、こういうことも根拠の一つとなっているのかもしれません。
 太田氏の講演会資料に載っている、花ヶ前盛明氏編の「大谷刑部のすべて」(新人物往来社)の年表には、通説通り永禄2年生誕説になっています。永禄8年生誕説では、三成より5歳も年下になりますから、今までのイメージとは違うことになります。
 その年表には天正14年の項に「6月 三成、堺奉行を兼務。吉継、三成を補佐」と記され、ここでも吉継と三成は行動を共にしています。

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