関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1540 勝家が築いた九十九橋の橋脚 太田浩司氏の講演6 小田原攻めの陣は隣同士

<<   作成日時 : 2015/12/29 11:39   >>

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 写真は福井市の北の庄城址資料館にある「九十九橋(つくもばし)の橋脚」を12月24日に撮ったものです。手前に写っているのは、椅子の一部であり、そこで休憩などができるようになっています。平日でしたが、資料館の入館者を数名見かけました。「九十九橋の橋脚」について、そばの説明掲示板及び館内に置いてあった「北の庄城址公園 柴田公園のご案内」の中で、次のようなことが書かれています。
 「九十九橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋ですが、江戸時代には半石半木の珍しい橋として全国的にも有名でした。半石半木とは、橋の南半分が石で、北半分が木で造られるという構造のことを意味しています。
 この橋が架けられていたという記録は朝倉時代にもありますが、半石半木の橋として架けたのは、文献、絵図等の研究から勝家公だと考えられています。
 江戸時代前期(貞享2年:1685)の『越前国地理指南』では『大橋 長八拾八間 幅三間 板橋四拾七間 石橋 四拾一間』とその大きさが記載されています。
 石橋の部分は全て笏谷石で作られ、橋脚の長さは立てる場所によって異なりますが、2.5m〜2.8mと推定されています。(以下略)」と。
 九十九橋の橋脚もまた、柴田勝家のゆかりのものですが、資料館と云い柴田公園、柴田神社と云い、発掘調査と云い、地元の人に勝家が慕われ、顕彰も進んでいることがうかがえます。
 さて、前日の23日に敦賀で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」の中で、天正18年の小田原攻めの際、吉継と三成の陣は隣同士であったことを示す「小田原陣仕寄陣取図」が紹介されていました。これは2000年に長浜市長浜城歴史博物館で開催された展覧会「石田三成 第二章」で展示されていたものですが、講演会資料にも掲載されていました。
その展覧会「石田三成 第二章」の図録の「小田原陣仕寄陣取図」の解説文の中で、次のようなことが記されています。
 「秀吉本陣の周りには、『上様御先衆』とされた秀吉馬廻りを初め、増田長盛・浅野長政・大谷吉継と共に石田三成の陣(『石治』と表記される)も見える。馬廻りと奉行衆の陣が、秀吉本隊を守る形となっている。三成は、5月16日には早雲寺にいたが(『岩城文書』)。その後この陣場を離れて上野館林城や武蔵忍城の攻撃に転じた」と。
 館林城、忍城攻撃には吉継も同行し、ここでも二人は行動を共にしています。

 

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