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zoom RSS 大阪探訪119 大坂の陣400年48 木村重成表魂碑・「マニラ陥落豊太閤奉告祭」・重成の槍と鐙

<<   作成日時 : 2015/12/03 19:02   >>

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 写真は中之島公園にある木村重成表魂碑を11月3日に撮ったものです。この日は真田丸跡推定地とされる大阪明星学園で「真田丸 プレミアムトーク」が午後に行われ、その前に立ち寄りました。中之島公園に木村重成の碑があるのは、かつてここは豊国神社の境内であり、そこに碑が建てられたからです。豊国神社は今は大阪城公園の中に移っています。
 朝日新聞夕刊に連載されていた「探訪夢のまた夢 豊臣興亡400年」の第19回「戦勝行事 経済人が音頭」と題する記事(4月27日付)で、太平洋戦争中の1942年1月9日に、「マニラ陥落豊太閤奉告祭」が行われたことが書かれています。「2万5千人もの長い列」が、「大阪城南西、いまの大手前広場から御堂筋を出て北に進み、大阪府立中之島図書館の西側にあった旧豊国神社までの約3キロ」を「軍歌を奏でるブラスバンドとともに行進した」こと、当時の「大阪の経済人らは、秀吉を『大東亜共栄圏構築の先駆者』と位置付けた」ことなどが記されています。
 戦時中に秀吉にまつわる、こういう戦意高揚の行事が行われたことも、豊国神社の位置も違っていたことも、この記事を読むまで知りませんでした。
 さて、大阪城天守閣で行われていた「大坂城戦史」展の中で、豊臣方の武将である木村重成の大身槍と螺鈿鐙が展示されていました。
 大身槍の解説文(図録にも同様の記載)には、「槍の中でも穂の部分が長いものを『大身槍』と呼」ぶこと、「重成は秀頼の乳母の子で、前年冬の陣の講和の際には秀頼の使者をつとめ、秀忠の誓約書を受け取る大役を果たした」こと、「夏の陣では一軍を率い藤堂高虎隊に大打撃を与える活躍を見せたが、ついには井伊直孝隊の安藤長三郎に討ち取られた」こと、「首実験の際に彼の首から伽羅のかおりが漂い、『若輩なる木村が振る舞い、やさしき勇士かな、不憫の次第』との上意が将軍家からあったという」ことなどが記されています。
 この槍には、「長門守 文明19年3月日 備前長船忠光」の銘が入っていますが、どういう経緯で現在残っているのかについては解説文には記されていません。
 螺鈿鐙の方は、解説文に「木村重成の所用とされ、彼が陣を置いた若江(東大阪市内)の馬場家に伝来した。南蛮漆器に好んで用いられた螺鈿の技法が駆使された、華やかな遺品である」と記されています。
 木村重成の首塚が、彦根市の宗安寺にあることは拙ブログ記事でも記しましたが、安藤長三郎が安藤家の菩提寺である宗安寺に埋めて葬りました。重成の墓は八尾市幸町の公園にあり、一度だけ訪ねたことがあります。
 

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