関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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<<   作成日時 : 2015/12/04 12:14   >>

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 写真は名護屋城址山里丸碑を9月に撮ったものです。山里丸は秀吉が住んでいたところです。本丸、三ノ丸、東出丸の北東部の丘陵にあり、われわれは本丸や天守台の西にある遊撃丸から下に降りて、名護屋城の北側をぐるりと東の方に回り、山里丸跡まで行きました。上に登ると、西に上山里丸、東に下山里丸があります。上の写真は、上山里丸の一角で、東に向かって撮っています。山里丸が平坦な場所であることがわかりますが、「上」と「下」の区別があるのは、高低差があることによっています。
 この点について、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、「防備性の高い『山里口』を有する北西部が高く(『上山里丸』)、南東部が低くなっており(『下山里丸』)、比高差は約10〜12mを測る」と記されています。
 「山里丸」は、虎口になっているので防備性が高いわけです。また「上山里丸」の発掘調査について、同図録には次のように記されています。
 「秀吉の直接的居住部は発見されていないものの(広沢寺家屋部改築の際に、基壇状遺構等が検出されているが詳細不明)、茶室空間、茶屋空間、路地等の重要遺構の発見が相次いでいる」と。
 文禄2年6月28日に、秀吉は名護屋城で石田三成・増田長盛・大谷吉継・小西行長に宛てて「大明日本和平条件」を提示しますが、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)にそれが引用され、その内容が次のようにまとめられています。
 「明の皇女を天皇の后妃として日本へ渡すべきこと(第一条)、また貿易を復活させ(第二条)、朝臣間で誓詞を取り交わすこと(第三条)」、「秀吉の先遣部隊によって『朝鮮国』はことごとくその支配下に置かれたというのが前提で」あり、その上で「明国とのあいだに和平が整うなら、漢城と北四道を回復させる意向を述べており(第四条)、この場合、朝鮮から王子と大臣とを人質として差し出すように要求する(第五条)。またこれとは別に、以前、加藤清正が捕らえていた二人の王子臨海君と順和君は明の遊撃将軍沈惟敬に還され(第六条)、最後の条では日本に叛意を抱かない旨を朝鮮国の権臣に誓約を求めている」と。
 明や朝鮮国には到底受け入れがたい講和内容であり、三成たちもそのことはよくわかっていたのではないでしょうか。しかし、困難な中で、なんとかして交渉を整えたいというのが行長や三成の思いだったと推測されます。しかし、彼らの思いもむなしく、実際、3年後の文禄5年9月、交渉は決裂します。この決裂原因として、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)の中で、秀吉には「領土の割譲」「朝鮮服属の象徴である王子の日本渡海が実現しないこと」が受け入れられなかったと指摘されています。また大坂城で明使節と対面した時、秀吉が立腹したというのは後世の創作話であるという山室恭子氏の見解に賛同が示されています。
 

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