関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1524 旅行記65 名護屋・福岡旅行25 名護屋城山里口・上山里丸の能舞台

<<   作成日時 : 2015/12/06 12:22   >>

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 写真は名護屋城山里口を9月に撮ったものです。写真は北側から撮っていますが、写真に向かって右側に上山里丸、左側に下山里丸です。前述したように、山里口が上山里丸への入口であり、虎口になっています。
 名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の中で、「肥前名護屋城図屏風」には、下山里丸に能舞台が描かれていることが取り上げられ、文禄2年3月5日付のおね(北政所)宛の豊臣秀吉自筆書状が掲載されています。
 その解説文に、「『祢』=北政所に、『松風』以下十番の能を覚えた事を伝えている。尚、名護屋城内では本丸や二ノ丸で能を催した事が知られる」と記されています。
 この書状が書かれた時には、三成は朝鮮の漢城にいましたが、小西行長・増田長盛・大谷吉継と共に5月に偽の明国使節を伴って名護屋に戻ってきます。明国使節は名護屋城滞在中、能などでもてなされています。
 同図録では、能関係のものとして、「杜若(かきつばた)」を演じる時に使用される、「若女(わかおんな)」と呼ばれる能面、「杜若」を演じる時に使用される「能装束」、秀吉が書き写させた「能楽口伝書(写)」が掲載されています。と能
 「能楽口伝書(写)」の解説文には、次のようなことが記されています。
 すなわち、「能を演じる際の所作や装束を記したもので、奥書には『入唐御陣』の時に、秀吉が羽柴忠三郎に命じて進上させた本を書き写したと記されている。本資料が書き写された時代は、江戸後期頃と推定されるが、原典には、文禄2年の日付と『九州肥前国名護屋陣所』と記されている」と。
 三成が能好きだったという史料は残っていないようですが、武士や大名のたしなみとして当時、能を観賞するということがありましたから、三成もよく見ていたでしょうし、好きだったのかもしれません。
 中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、織田秀信宛と推定される三成書状が取り上げられ、三成が鷹狩マニアだったことが明らかにされています。三成は文官というイメージが強いかもしれませんが、あくまで武将であり、鷹狩に興じていたとしても不思議はありませんし、三成が高い戦略眼を持っていたということも、中井氏の同書やオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)で指摘されています。

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