関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1525 旅行記66名護屋・福岡旅行26 唐津城・寺沢広高は関ヶ原に参戦せず?

<<   作成日時 : 2015/12/07 10:50   >>

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 写真は唐津城を9月21日に撮ったものです。前日に、名護屋城博物館、名護屋城跡、野元にある三成陣跡、最初の三成の陣跡があったと推定される生駒親正陣跡、上杉景勝陣跡などを回りましたが、この日は虹の松原、唐津城を回った後、福岡に向かいました。
 唐津城の館内では、江戸時代の城下町を再現したジオラマ、唐津藩時代の甲冑・武具、江戸時代の古絵図、唐津焼、全国の名城の写真などが展示されていました。、
 名護屋城の建物が唐津城に移築されたということについて、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋と『天下人』秀吉の城」の中で論じられています。それによると、「松浦郡唐津城開基之事」には「名護屋城から石垣や門、櫓なとが移されたと記されている。石垣については、名護屋城が玄武岩、唐津城は花崗岩を主体としていることから否定的な意見が多い」こと、「近年の唐津城跡発掘調査では名護屋城と同笵(同じ版木による製作)の瓦が多く出土している。名護屋城内に設置された唐津藩の古城番所の瓦も含めて約20種類が同笵関係であった。また、金箔瓦や名護屋城の天守台周辺でしか出土しない上質な道具瓦もみられ、名護屋城の建物が移築されたことを裏付ける結果となっている」こと、「しかし、文禄年間に唐津城が存在したという記述もあり、全てを移築とは断定できない(『朝鮮陣留書』)」ことなどが書かれています。
 唐津城のパンフレットには、築城の時期について、「豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が慶長7年(1602年)から7年の歳月を費やして完成した」と記されています。
 寺沢広高は関ヶ原の戦いでは東軍に属しましたが、関ヶ原に参戦していたのかということには、白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)の中で、疑問が呈されています。
 すなわち、「『日本戦史』図だは、藤堂高虎・京極高知の後方に、寺沢広高が位置しているが、一次史料では寺沢広高の関ヶ原合戦(本戦)への参戦は確認できない」と。
 「日本戦史」とは、明治26年に参謀本部が編纂した「日本戦史 関原役(附表・附図)」所載の「關原本戦之圖」のことですが、白峰氏の同書では、「『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はない」と論じられています。
 「日本戦史」の布陣図に基づいた関ヶ原合戦図が、関ヶ原合戦関連本では一般的であり、たとえば、矢部健太郎氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)に収録されている「関ヶ原合戦両軍配置図」でも、確かに、寺沢広高は藤堂高虎・京極高知の後ろに布陣しています。そういう布陣図を検証し、参謀本部の創作だと結論づけられているのが白峰氏の同書です。
 

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