関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1546 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ1 秀吉の太田城水攻め1 三成も従軍

<<   作成日時 : 2016/01/10 11:08   >>

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 写真は和歌山で見つけた、秀吉の太田城水攻め跡の説明掲示板を一昨日撮ったものです。JR和歌山駅の東口と西口をつなぐ地下道の壁に掲示されていました。
 一昨日は青春18切符(最後の1枚)を利用して、和歌山へ行き太田城跡や関連史跡、和歌山城をめぐってきました。まず、東口の駅前にある太田城主であった太田左近の像を見、秀吉が水攻めのために築いた堤跡(駅の西北東の方向にあるところにわずかに残っています)、本丸があった来迎寺、すぐそばの太田一族の供養のために小山塚(堤のところから南下しました)、再び東口に戻って、西口に出、南南東にある太田城の門を移築した大立寺(けやき通りを西に進み、柳通りを南下しました)、そこからさらに西に進んで岡口門から和歌山城に入りました。二の丸庭園、御橋廊下、西の丸広場、紅葉渓庭園、鶴の渓、天守閣などを1時間余りかけて回りました。
 和歌山城は高校生の時に見学して以来です。太田城跡は初めてです。
 上の写真には、太田城水攻めに関して次のような説明がされています(関連遺跡の地図や絵図なども掲載されています)。
 「1585年4月22日。3週間の持久戦を経て太田左近はじめ武将50余名が自刃し降伏した。秀吉軍は総延長6〜7km、高さ約4〜6m、基底部幅34mの堤をわずか6日で築いている。太田城攻めは、岡山県高松城、埼玉県忍城と並び日本三大水攻めとして有名」と。
 高松城水攻めは天正10年、太田城水攻めはその3年後のことです。忍城の水攻めはさらにその5年後のことです。
  この太田城水攻めに、三成も従軍していたものと思われます。この点について、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)の「天正13年(1585)」の項に、3月「25日開陣の時も三成(三也)は太田の陣所にあった」と記されています。その典拠は「宇野主水日記」です。
 一方、秀吉の方は、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井氏編の同書に所載)には、天正13年4月「21日大坂発」「同日和泉大津を経て岸和田着」「22日積善寺在」「23日根来寺着」「24日雑賀表着」などと記されています。
 積善寺は和泉にありますが、積善寺城は根来衆側の城でした。秀吉軍は3月に積善寺城を落城させます。その積善寺まで秀吉は4月22日に進んできたわけですが、今回はこのあたりまで行く余裕はありませんでしたが、三成も足を運んだ場所ですから、改めて訪ねてみたいと思います。
 

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