関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1547 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ2 秀吉の水攻め2 堤跡・行長の活躍?

<<   作成日時 : 2016/01/11 11:21   >>

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  写真は秀吉が太田城を水攻めにするために城の周りに築いた堤の、わずかに残る跡を1月8日に撮ったものです。昨日付の拙ブログ記事に貼付した写真に、その堤の推定位置も記載されていますが、残っている堤の位置は城の本丸の北北東の方向に当たります。その説明掲示板には、築いた堤の長さは6〜7キロと記されています。
 これも前述したように、三成がこの太田城攻めに従軍していることは、「宇野主水日記」によってわかりますが、どういう役目を果たしているかは定かではありません。
 松田毅一氏・川崎桃太氏訳の「完訳フロイスの日本史」(中公文庫)には、太田城攻めについての記載があり、そこには小西行長の活躍ぶりが描かれています。この点について、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)には、次のような指摘がされています。
 「まるで太田城攻撃が行長の独断場であったようなフロイスの書きぶりであるが、この紀伊攻めにおける水軍の編成は『中村孫平次(一氏)・仙石権尉(秀久)・九鬼右馬允(嘉隆)を大将と為し、小西・石井・梶原等船奉行』(【紀州御発向之事】)というものであり、実際には攻撃に加わった舟手衆の一人にすぎなかったのだろう。
 また、この時に太田城攻撃に参加していた真鍋貞成は、行長について『小西摂津守其時分三千石下され舟手をいたされ申候』と記録を残している(【大日本史料】十一編之十五)」などと。
 小西行長はキリシタンですから、フロイスは彼らキリシタンの活躍を誇張して記しています。逆にフロイスにとって異教徒である仏教徒に対する書き方は辛辣であり、三成もひどい描き方がされています。しかし、実際のところ、三成はキリシタンに対して配慮しています。サン=フェリペ号事件の際も、できるだけ犠牲者の数を少なくなるように尽力しています。このことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「山城・京」の章の中で取り上げられています。
 「フロイスの日本史」には、秀吉の水攻めについて、次のように記されています。
 すなわち、「彼は、城の周囲3里にわたり一種の土塀のように堤を設け、敵軍が防禦に利用していたかの水量豊かな大河の水をその堤の中に導入し、彼らを水死させることにした。秀吉は、これらの堤の工事を全指揮官に分担させたが、それらは畳9ないし10枚ほどの幅と5、6枚の高さであり、城から遠く隔たり、ほぼ鉄砲の射程距離くらいのところにあった」と。
 その堤が一部決壊したことについても、同書に記されています。
「堰止めされた内部に河水が入り始め、しかもそれは奔流をなしてすさまじい勢いで押しよせたので、三ヵ国の領主である宇喜多八郎殿が担当していた堤の一角が決壊した」と。宇喜多八郎は宇喜多秀家のことです。

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