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zoom RSS 大河ドラマ探訪336 「真田丸」1 武田家滅亡直前の勝頼・真田昌幸の動き

<<   作成日時 : 2016/01/12 11:21   >>

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 大河ドラマ「真田丸」は、天正10年2月の時点から始まりました。本能寺の変の4ヶ月前です。勝手に偵察に行った信繁が徳川軍に見つかり、馬で逃げる場面と、33年後の大坂の夏の陣で信繁が馬にまたがって家康軍に突入する場面(家康を自害寸前にまで追い込み、「日本一のつわもの」とうたわれることになるという語りが入っていました)とを重なり合わせるところは、三谷幸喜氏らしい、少しユーモアを交えた演出だと思いました。
 朝日新聞に連載されている「三谷幸喜のありふれた生活」で、以前、天正壬午の乱を詳しく描くことを明らかにしていましたが、第一回では、武田家滅亡の直前のところから話を始め、勝頼が次々と味方に裏切られていくところが描かれていました。
 この点について、平山優氏の「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(戎光祥出版)の中で、次のように記されています。
 「2月25日、武田一族穴山梅雪が謀叛を起こすと、信濃諏訪で最後の決戦を企図していた勝頼は、やむなく本国甲斐防衛のため、築城まもない新府城に撤退せざるをえなくなった。
 だが、新府城は未完成で籠城も叶わずと判断した勝頼は、3月3日払暁、城に自らの手で火を放ち、都留郡領主小山田信茂を頼って東への逃避行を始めた。だが10日深夜、小山田信茂も変心したため、進退窮まった勝頼主従は11日、田野(山梨県甲州市大和町)で滅亡した」と。
 ドラマでは秀頼が昼間、関を通ろうとしたところ、裏切った小山田信茂に阻まれて引き返すという展開になっていました。
 また真田昌幸が勝頼に岩櫃城に移るよう勧め、先に出発し、人質も解放されたという描き方がされていましたが、これはおおむね「加沢記」の記録によるものであることが、柴辻俊六氏の「真田昌幸」(吉川弘文館)に記されています。「加沢記」は上野側の記録ですが、萩原進氏の「詳細な書誌学的な考察」によって、「記録性の高いものとして再評価された」ということが述べられています。
 その記録によれば、「2月28日早朝、昌幸は勝頼に強く岩櫃城への避難を要請した後に、迎える準備のため吾妻郡に向かって出発した。ところが3月3日の最終軍議で勝頼は小山田信茂の勧める岩殿城への避難に決した。(中略)しかし勝頼が岩殿城へ向かったとの知らせで、(昌幸は)3月4日に二千五百余騎を率いて岩櫃城を立ち、上田城に入った。(中略)この間、新府城には妻子が人質として残されていたが、勝頼の計らいで帰国が許され、一行は一揆に悩まされながら11日頃ようやく上田に到着している」と。
 ここでの「上田城」は「戸石城」であることも、柴辻氏の同書に記されています。

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