関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1548 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ3 秀吉の水攻め3 本丸跡・堅牢な城

<<   作成日時 : 2016/01/13 18:09   >>

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写真は和歌山市の来迎寺の山門を1月8日に撮ったものです。ここに太田城の本丸がありました。かつてはここに城があったとは思われないほど、今は遺構はほとんどなく、このあたりは完全に町中になっています。この城の規模について、寺の横に建っている太田城の説明掲示板に次のように記されています。
 「城の範囲は、現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西250メートル、南北200メートルで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門をもっていたとされる」と。 
 松田毅一氏・川崎桃太氏訳の「完訳ルイス・フロイスの日本史4」(中公文庫)には、太田城の堅牢さについて、次のように記されています。
 「この城郭はまるで一つの町のようであり、雑賀の財宝の粋が蓄積されていた。そこには根来衆と雑賀の重立った指揮官が全員集結し、武器、兵員、食糧も豊富に貯えられており、日本人の常食となっている米だけでも城内に二十万俵あると言われていた。
 同城はすべての部門をきわめて巧妙、かつ堅固に防備していて、攻撃によって城内に侵入することは困難であった」と。
 そういう堅固な城だったから、秀吉は水攻めにすることにしたという文脈になっています。三成は高松城の水攻めも太田城の水攻めも目の当たりにしていましたから、忍城を水攻めにすることは無理だということを現地を見て思ったに違いありません。太田城にまわりに築いた堤は6〜7キロ、それに対して忍城は20キロ以上に及ぶものであり(新規に作った堤はもっと少なかったとしても)、規模が全く違います。「のぼうの城」では、三成が水攻めを思いついたというふうに描いていましたが、実際は現地を見ていない秀吉が命じたものであり、三成はそれに反対していたものの、最終的には秀吉の命令に従わざるをえなかったというのが中井俊一郎氏の見解(「三成伝説」「石田三成からの手紙」【サンライズ出版】)であり、その見方はかなり世間にも認知されていっているような気がします。
 太田城の堤は決壊しましたが、忍城の堤も決壊しています。そういうリスクを伴うものが、水攻めですが、太田城の決壊した堤については、「フロイスの日本史」には、「ごく短期間のうちに、全面的に堤の決壊箇所は修復された」とあり、その結果「河の水が激流をなしてふたたび堤の内部に侵入し始めると、城内の者は恐怖に満ち、羽柴の許へ、泳いで人を派遣し、和を乞い、助命されるならば50万クルザードを提供してよいと申し出た。だが秀吉はそれに耳を傾けず、敵の全員をそこで水死させる覚悟であった」などと記されています。
 水攻めが功を奏したことがうかがえる記述ですが、「フロイスの日本史」では、この後、行長が率いる水軍による戦闘の活躍が描かれているものの、前述したようにそれは誇張であることが鳥津亮二氏によって指摘されています。
 
  

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