関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1549 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ4 秀吉の水攻め4 太田左近像

<<   作成日時 : 2016/01/15 17:37   >>

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写真はJR和歌山駅東口に建つ、太田城主の太田左近像を1月Tがっ撮ったものです。太田城は秀吉によって落城しましたが、敗軍の将ながら地元の英雄をこういう形で顕彰しているのはいいことですし、今後顕彰が進んでいくことを願っています。この時、三成は攻撃軍の中にいましたが、関ヶ原の戦いでは逆に敗軍の将になり、悲劇的な最期を遂げました。三成の地元での顕彰活動はますます盛んになってきていますし、佐和山城跡の発掘調査、「三成会議」の開催や「三成の戦」のイベントもその表れです。
 太田左近像のそばに建っている説明掲示板には、次のようなことが記されています。
 「太田左近は、天正13年(1585)全国制覇をもくろむ豊臣秀吉に対し、太田城に立てこもり、紀州の土豪を指揮して抵抗したという。一か月に及ぶ水攻めをうけた後、最期はみずからの命を賭して城中の子女の助命を願い城を開城したという。
 中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物といえるだろう。『紀州続風土記』や『根来焼討太田責細記』」による」と。
 建立したのは「太田城史跡顕彰保存会」です。
 松田毅一氏・川崎桃太氏訳の「完訳ルイス・フロイスの日本史4」(中公文庫)には、太田城の和平交渉について、次のようなことが記されています。
 太田側は、羽柴側が再び大攻撃をしてくるのことを恐れて、「別の条件を出して羽柴に憐れみを求めた。彼らは、このたび羽柴秀吉が根来衆と雑賀の者から挑戦と侮辱を受けたのは、すべて城内に潜んでいる53名の首謀者の為せるところである、と言い、それら首謀者の首級を引き渡す代りに怒りを鎮め、それで償いは果たされたものと見なし、爾余の全員の生命を助けてもらいたいと願い出た。
 羽柴(秀吉)はこの条件を受諾し、翌朝、かの53名全員の首級が敵兵の贈物として齎された。秀吉はそれらすべての首を鉄棒に刺し、堺と大坂の街道に順次並べて曝し置くように命じた」と。
 「別の条件」とは、13日付の拙ブログ記事で触れたように、「人を派遣し、和を乞い、助命されるならば50万クルザードを提供してよいと申し出た」ということに代えての条件であり、城主たちが命を差し出す代りに、家臣たちの命が助かったというのは、高松城の水攻めの際、城主の清水宗治が切腹して開城し、家臣たちは助かったという状況と似ていますし、その前の、信長存命中の三木城攻めや鳥取城も同じです(水攻めではありませんが、兵糧攻めという点では共通しています[桑田忠親氏『太閤の手紙』])。もっとも、太田左近らの首を曝したというところには、秀吉の残忍さが感じられますが、根来衆や雑賀衆、ひいては全国にひろがる反対勢力に対する見せしめの意味があったのでしょう。なお、いずれの城攻めの際も、三成は秀吉の家臣として加わっています。

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