関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1555 天正13年10月17日付と11月19日付の昌幸宛ての秀吉書状をめぐって

<<   作成日時 : 2016/01/27 14:41   >>

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 拙ブログ記事で前述したように、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、「天正13年10月、昌幸は秀吉から支援の確約を得ることに成功した。取次役は石田三成」などど記されています。
 この点について、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)には、10月17日付の昌幸宛ての秀吉書状が掲載されています。その書状について、次のように解説されています。
 「昌幸は秀吉家臣の道茂に書状を送り、現状を説明し、秀吉と結びつきたいとの意志を伝えていたのである。これに応じた秀吉は、昌幸の進退についていずれにも迷惑がかからないようにすると述べ、昌幸の望みを叶えた。秀吉は天下を取るため、いずれ徳川家康や北条氏政と戦う必要があると考えていたはずで、その際に鍵ともなりえる昌幸が懐に飛び込んできたのは、歓迎すべきことだった。ちなみに、徳川方に味方していた小笠原貞慶も秀吉に鞍替えした」と。
 同書状は、柴辻俊六氏の「真田昌幸」(吉川弘文館)にも取り上げられ、次のように解説されています。
 「先に昌幸が秀吉側近の佑筆である徳法軒道茂を介して自らの『進退の儀』について懇請をしており、これはその返書であった。昌幸が秀吉に何を懇願したのかは判然としないが、時機が(中略)、上田合戦の直後であり、しかも徳川勢がまだ信濃には在陣中のことであるから、通説では秀吉への忠誠を誓って援軍を要請したことに応えたものとされている。しかしこれはまだ石川数正出奔事件の前のことであり、そこまで考えてよいかは疑問である」と。
 問題となっているその秀吉書状の文面は、「その方進退の儀、何れの道にも迷惑せざる様に申し付くべき候」などというところですが、この段階で昌幸が秀吉に援軍要請をしたことに、両氏とも否定的なわけです。
 笹本氏の同書には、11月19日付の昌幸宛の秀吉書状が引用され、柴辻氏の同書では、その書状の一部が引用されていますが、柴辻氏の同書では、次のように解説されています。
 「ここでは、再び家康との間が緊迫した状況になっていたことが知られる。この段階ては、小笠原貞慶・木曽義昌も秀吉方に帰属しており、信濃でもまた新たな紛争が起こりそうな気配となった」、「昌幸の秀吉への接近は同盟者となった上杉景勝を通してのものであり、かつ石川事件後に秀吉の家康への対応が急変したことも確かであり、それが先の11月19日の条目となって表れている。そこでははっきり昌幸より援軍要請のあり次第、出兵しているといっている」と。
 三成は上杉景勝の取次をしており、三成が書状を通じて上杉家と最初に接触を持ったのは、天正11年2月であると太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)に記されています。

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