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zoom RSS 石田三成の実像1556 天正14年8月3日付の上杉景勝宛ての増田長盛・石田三成連署状

<<   作成日時 : 2016/01/28 21:47   >>

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 笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)の中で、天正14年8月3日付の上杉景勝宛ての増田長盛・石田三成連署状が取り上げられています。
 その書状の解説として、「昌幸を討とうとして上杉景勝に昌幸の支援を禁じた」ものであり、「秀吉が昌幸を外面と内面が異なる表裏のある者で、卑怯者だと評していることが記されています」とあります。
 原文には「表裏比興の者」と書かれており、昌幸を評する言葉として、あまりにも有名です。
 この時点で、三成も昌幸に対して秀吉と同様の思いを持っていたかは判然としませんが、昌幸とはまだ直接的には会っていない時期であり、状況から見ればこういう昌幸に対する評価は豊臣家の人々にとっては、共通の認識であったのかもしれません。 
 この書状は、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏の『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)にも取り上げられており、「秀吉への使礼披露を報じ、真田への対応、佐渡仕置きの件などを告げている」と記されています。
 この書状が書かれた時点では、秀吉は昌幸を討とうとしていましたが、その理由として、笹本氏の同書では、「秀吉は家康との同盟を維持・強化するために、家康の意に沿って昌幸を討つ必要があった」からだと記されています。
 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、「天正14年6月、上杉景勝が上洛し、関白となった秀吉に謁見した。その際、秀吉は、真田昌幸を徳川家康の支配下に戻すという意向を示した」が、「この命令は真田昌幸にはとうてい承服できるものではな」く、「昌幸は秀吉の命令を無視し、上洛しようとはしなかった」と記されています。
 秀吉と家康は小牧・長久手の戦いで争い、一旦講和を結びましたが、秀吉は天正13年11月の時点で家康を再び討つことを本気で考え、準備を整えていました。ところが、12月に起こった天正大地震によって、秀吉側が大きな被害を受け、諦めざるをえず、結果的に家康は窮地を逃れました。大地震によって家康が救われたことを私が知ったのは、拙ブログ記事で以前触れたように、朝日新聞に連載されていた「磯田道史の備える歴史学」によってでした。
  この点及びその前後の状況について、丸島氏の同書には次のように記されています。
 「家康からすると、石川数正出奔という大きな危機を、天災が救ってくれたことになる。天正14年4月に秀吉の妹旭姫が家康に嫁いだことで、家康と秀吉の和睦は成立したが、出仕には応じようとしなかった。秀吉が信濃における停戦を昌幸に命じたのは、この直前の2月である」と。
 
 

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