関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 受贈御礼 石田三成の実像1557 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」1 正午頃に西軍は敗北

<<   作成日時 : 2016/01/31 15:43   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 0

  「毛利吉成・勝永父子座談会 実行委員会会長」の有川淳一氏より、高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」(自費出版されたもの)をいただきました。有川氏からは以前にも、福本日南氏の「大阪城の七将星」から「毛利勝永」を有川氏が抜き刷りして冊子にしたものを賜りました。この場を借りて、厚くお礼申し上げます。
 「大阪城の七将星」の「毛利勝永」は、大坂の陣での活躍を中心として述べたもので、勝永のすさまじい奮戦ぶりにスポットが当てられています。福本氏の同書の内容については、大坂の陣を取り上げる際に、改めて紹介したいと思います。
 一方の 「一次史料にみる関ヶ原の戦い」は、高橋氏による「あとがき」によると、「毛利吉成・勝永父子座談会」と「東海古城研究会城郭セミナー」で研究発表した時の報告用資料の内容を再編集したものです。
 有川氏は高橋氏の同書の「まえがき」を書いておられますが、その中で同書は「石田三成、吉川広家の書状を他の史料と比較しながら分析する」ものだと記されています。
 石田三成の書状は、関ヶ原の戦いの3日前の9月12日付の増田長盛宛のものであり、吉川広家の書状は、同日付の家臣宛のものと、関ヶ原の戦い直後の17日付の毛利輝元宛のものです。それら一次史料(三成書状は、本当に三成が書いたものかどうかについては、私自身は疑問を持っていますが)の検討によって、通説を覆す見解がいろいろと示されています。
 まず、家康が関ヶ原の戦いで小早川秀秋に鉄砲を撃ちかけ裏切りを促したという、いわゆる「問い鉄砲」について、「黒田家譜」の記載を引用し、これは「一次史料では」なく、「後世の編纂物」だと記され、「『問い鉄砲』は、戦いから80年以上も経過してから出来た作り話」だと指摘されています。
 「問い鉄砲」が作り話だという点については、前に拙ブログ記事で取り上げたように、白峰旬氏の「新解釈 関ヶ原合戦」(宮帯出版社)の中で、すでに指摘されています。白峰旬氏の同書には、数々の編纂史料における「問い鉄砲」の記述を克明に比較検討し、内容が時代を追って変遷していることを明らかにしています。
 ついで、高橋氏の同書では、関ヶ原の戦い当日である9月15日付の徳川家康書状が取り上げられ、「正午十二時ごろに合戦に勝利したと言ってい」ること、「家康は戦場を『関ヶ原』とは言わず『濃州山中』であったと言ってい」ること、「関ヶ原の西軍を『備前中納言、島津、小西、石治少』と、宇喜多秀家、島津義弘、小西行長、石田三成の順で呼んでい」ることなどが記されています。
 関ヶ原の戦いが、小早川秀秋が開戦と同時に裏切り、石田三成方は瞬時に敗北したという見解が白峰旬の同書によって示されています。また桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)には、島津氏側の史料によって、「正午頃に石田勢が敗軍した」と記載されており、「通説より2時間ほど早い」こと、「またそのことと小早川秀秋の裏切りとの因果関係は不明である」とも記されています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
受贈御礼 石田三成の実像1557 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」1 正午頃に西軍は敗北 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる