関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1543旅行記67名護屋・福岡旅行27太宰府天満宮楼門 太田浩司氏の講演8 吉継奉納鏡

<<   作成日時 : 2016/01/04 10:40   >>

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 昨年はオンライン三成会有志の人々と名護屋・福岡を訪ねましたが、今年は津軽を訪れたいと思っています。三成の次男の重成が関ヶ原の戦いの後逃れたのは津軽でしたし、三成の三女の辰姫が嫁いだのも津軽藩でした。
 
画像
写真は大宰府天満宮の楼門を昨年の9月21日に撮ったものです。楼門を再建したのは石田三成だということが、太宰府天満宮発行の図録「天神絵巻 太宰府天満宮の至宝」に記されています。同図録には、本殿は小早川秀秋が再建し、土地は秀吉が、鰐口は筑紫広門が寄進したこと、黒田家が如水以来代々天満宮を篤く信仰したことなども記されています。博多復興に尽くしたのは三成であり、黒田如水でした。
 われわれオンライン三成会有志一行が訪ねた日は、天満宮で行事が行われ、大変な人出でしたし、レンタカーが渋滞に巻き込まれ、宝物館を見たかったのですが、たどり着いた時には閉館時間になっており、宝物館は見学することはできず、入口のところで図録だけ買い求めました。この日は前にも述べたように、虹の松原、唐津城を見てから、福岡に入り、三成ゆかりの伊野神社、神屋宗湛屋敷跡(豊国神社)、宗湛の墓、嶋井宗室屋敷跡、筥崎宮、最後に太宰府天満宮と回りました。
 大宰府宝物館で見たかったのは、大谷吉継が文禄2年(1593)9月吉日に大宰府天満宮に奉納した「鶴亀文懸鏡」でしたが、残念ながら時間切れで果たせませんでした。もっとも、同図録にはこの鏡の写真と説明が掲載されています。
  昨年の12月23日に敦賀で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」で、白川亨氏の論考「陽鑄銘についての一考察」について触れられていましたが、これは吉継が奉納したこの鏡について論じられたものです。
 白川氏の論考では、吉継と同じくこの鏡の願主に名を連ねている「同東」が大谷吉継の母である東殿のことであり、この鏡は、「『東殿』等が、吉継の帰国に合わせ、京都の鑄物師中島六郎左衛門に依頼したものであろう」と指摘されています。吉継は文禄元年6月「三成と共に渡海し、文禄2年、和平交渉の進展に伴い、同年9月、三成とともに帰国している。『鶴亀文懸鏡』は、そのとき奉納されたと考えて間違いないであろう」とも記されています。
 この鏡の存在を知ったのは、2000年に長浜市石田町で行われた「石田三成400年祭」の時の白川氏の講演においてでしたが、北政所=家康派、淀殿=三成派という通説を覆し、北政所は三成寄りだったという論証の一つとしてこの鏡のことも出されていました。東殿は北政所に仕えた女性です。
 
 
  

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