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zoom RSS 石田三成の実像1544旅行記68 名護屋・福岡旅行28 筥崎宮 太田浩司氏の講演9 大陸侵攻の困難さ

<<   作成日時 : 2016/01/06 15:12   >>

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  写真は博多の筥崎宮を昨年の9月21日に撮ったものです。秀吉は九州攻めの際、本陣を置いたところです。
  三成と博多の関わりについて、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)の「天正15年(1587)」の項には、次のようなことが記されています。
 4月「23日付で大谷吉継・安国寺恵瓊と連署状を発して、博多商人の還住を勧める(『原文書』)」、島津攻めの後、「筑前箱崎に凱旋。長束正家・小西行長らとともに博多復興を期した町割りの奉行に就いたとされる。この間。6月25日には細川幽斎とともに、上洛のため博多まで北上してきた島津義久を訪ねている(『薩藩旧記』)」などと。
 三成は秀吉の命を受けて博多復興のために尽力していることがわかりますが、前述したように、秀吉の当初の計画としては、博多を大陸侵攻の前線基地にするつもりでした。三成にはそのことはわかっていたでしょうが、博多の復興は望んでいたとしても、外国との戦争は望んでいなかったはずです。そのことがわかるのは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも取り上げられている、嶋井宗室と三成が秀吉に文禄の役の前に侵攻をやめるように進言したという「博多記」の記述です。さらに、文禄の役の際に三成らが秀吉の代わりに奉行として朝鮮半島に渡って戦争の悲惨な状況を見、そのことを正直に述べた書状です。
 前述したように、その書状が、敦賀で昨年12月23日に行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」では、文禄の役の資料として取り上げられていました。その書状は、増田長盛・大谷吉継・三成の三奉行が朝鮮半島から、長束正家・木下吉隆・石田正澄宛に出した報告書ですが、これも前述したように、長浜市長浜城歴史博物館で2000年に開かれた展覧会「石田三成 第二章」で展示されていましたが、この書状については、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)でも取り上げられ、解説されています。
 講演会資料には、展覧会の図録の解説文が掲載されていましたが、「三奉行が朝鮮での戦闘継続の困難さを、名護屋の本営に切々と申し送った内容となっている」と記されており、太田氏は彼らがどうやって面目を保って戦争をやめるか考え始めたと解説しておられました。
 この書状は案文ですが、同図録の解説には、「ほぼ同様の内容を記した、文禄元年付けの秀吉宛て三成書状が知られており、本書もその書状と前後して作成されたものであろう」と記され、実際に秀吉にこういうことを書き送ったことがわかります。秀吉側近の三成は、秀吉の命ずるままその言いなりになっていたと考えられがちですが、実際は譴責を受けるのも厭わず、直言する人物であったわけです。このことは、中井氏の同書や白川亨氏の一連の著書で、指摘されています。
 

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