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zoom RSS 石田三成の実像1545 太田浩司氏の講演10 惣奉行としての吉継・三成 秀吉没後、家康寄りの吉継 

<<   作成日時 : 2016/01/08 22:00   >>

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 昨年12月23日に敦賀で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」では、前述しているように、吉継と三成が若い頃からいかに行動を共にしていたかを、数々の史料をもとに明らかにされていましたが、文禄の役の際にも共に奉行として渡海しています。小瀬甫庵の「太閤記」(新人物往来社)の「朝鮮陣人数賦之事」も取り上げられおり、「惣奉行は、増田右衛門尉、石田治部少輔、大谷刑部少輔なり」という記述が紹介されていました。
 「惣奉行」という言い方が一次史料に見られるかどうかは確認していませんが、三人が奉行を代表していたのは、「石田三成等三奉行連署書状案」が残っているのを見ても確かですし、和平交渉に際して、和議七ヵ条を明の使節に提示した時、秀吉の署名に添えて、三奉行と小西行長が副署していることからもわかります。このことは、講演会資料に掲載されていた花ヶ前盛明氏の「大谷刑部関係年譜」(『大谷刑部のすべて』【新人物往来社】所載)にも載っており、講演会でも触れられていました。
 しかし、和議交渉は結局決裂し、慶長の役が引き起こされますが、この役には、吉継も三成も渡海していません。同年譜には、慶長2年2月の項に「朝鮮出兵、慶長の役。吉継、三成らは名護屋城に在陣」と記されています。
 講演会では、慶長2年7月9日付の島津義弘宛吉継書状が取り上げられていましたが、三成は渡海しないけれども、三成から指示があるだろうという内容のもので、講演会資料にも掲載されています。この時点においても、吉継と三成の関係の近さがうかがえます。
 翌慶長3年8月に秀吉が亡くなり、家康が秀吉の遺命に背いて大名たちと婚姻を結ぼうとしますが、それを三成ら五奉行と四大老が問題視し、家康と対立しますが、その時点では吉継は家康寄りだったという切畑匡基氏の見解があることも紹介されていました。確かに、上杉攻めの際も、吉継は三成の嫡男の重家を参戦させるべく垂井まで迎えに来ていますから、吉継は家康のやり方に疑問を覚えながらも、家康に従おうと思っていたのだと考えられます。
 吉継が家康寄りだったのは、家康が秀吉没後の最大の実力者であり、秀頼政権を支えるには彼に頼るしかないと思ったからでしょうし、吉継の目指していたものは五大老五奉行制の維持だったはずです。それだからこそ、三成の説得を受けて、家康が豊臣政権のためにならないことを認識し(家康の数々の横暴ぶりが、豊臣体制を崩壊させるものであることには気づいていたと思われますが)、三成と共に家康打倒の兵を挙げることに同意したのではないでしょうか。
 

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